≪講演録≫無印良品流 人の育て方と仕組みづくり
一番大きな理由はブランドの弱体化
1980年に相当時代を先取りして無印は誕生しました。20年経ってお客様はどんどん変わってしまいました。お客様の半歩前か1歩前の商品を作れないと買ってもらえない。一応「無印良品」という名前がついていて、この頃はランジェリー、スポーツ、スーツ、家電・・・と商品領域が広がっていましたので、まだそこそこには買ってもらえます。
でもかつての無印の価値はないとお客様は思っていました。どんどんお客様がいなくなってしまいました。最初に衣料品、そして生活雑貨、食品・・・とどんどん広がっていきます。こういった組織体質だから物を作る力が相当弱まり、ブランドの弱体化を招いたのです。
急速な拡大政策―「質を伴わない成長はリスクでしかない」
2000年、国内の新店の面積が40%増えました。通常は数%なのですが一挙に40%。大半が直営店でしたから直営店の面積の増加率は73%。そして大型化政策。4000アイテムから6000アイテムへアイテム数は1年で1.5倍。1000坪の店もできました。このように、4億の店を5つ作るより1000坪の店で20億を売り上げるという大型化に拍車をかけていきました。
商品力が弱まり、オペレーション力は個人に移行している中では、20億の予算の1000坪の店が10億しか売れません。駅前の1等地で大きな赤字を出す店がどんどん増えました。そして直営化政策に移っていきます。それまではFCの売上を増やし、販売力を大きくする。そして販売力で商品開発をプルアップするというビジネスモデルでやってきましたが、そのモデルはここで終焉を迎えます。
FCではある局面で利益が相反します。衣料品を処分する場合、原価をはるかに割って処分しなくてはいけないので利益がでない。そういう商品をFCは仕入れなくなります。FCは言うことをきかないので、SPAにとって命ともなる在庫のコントロールを直営店だけでしなければならないのです。思い通りにならないFC、大型化政策。FCの近くに直営の大型店が出る、という現象が各地で起こってきました。
また、海外もアクセルを踏んでしまいます。97年当時イギリスには5店舗しかありませんでした。7年で5店舗です。海外のブランドの進行はゆっくり、しかも赤字だったのに50店200億、お店も売上も10倍にするという号令をかけてしまったのです。フランスの社長は一番フットワークがよく、4店舗を8店舗に倍増しました。ルーブル美術館の地下にある「世界の銀座」というショッピングセンターに入ることができました。
しかし観光地なので物を買いに来るところではなく、大きな赤字を抱えてしまいます。ディズニーランドの近くパルトヨーロッパのショッピングセンターなどはお客さんの数より社員の数の方が多く悲惨でした。整然としてきれいなのですがお客様がいない。半年で撤退することになります。
唯一フランスのみ人員整理をしました。退社してもらう際、労働組合委員長のサインがいる。日本の労基署のような機関、つまり国の許可がないとお店も閉められない。次にお店を作る時は最優先で雇用する義務が生じる。これがフランスで言うソーシャルプランです。店を閉めてリストラをするためのプランを出して承認してもらわないといけないのです。
【挫折の外部要因】
既存店の昨年比、1年前の売上が今年超えられるかどうかの指標が一番大事。
2001年度86.6%、5月度が一番底で76%、衣料品で66%、これは絶対赤字にしかならない数字です。その時ユニクロさんは2000年フリースブームで、原宿に出て、167.7%、翌年も141.7%。粗利の高い衣料品でしかも正価で販売。初めて1000億の経常利益に達し、日本の専門店では稀有な利益を上げました。
また100円ショップで唯一上場しているキャンドゥ―さん、ニトリさん、ヤマダ電機さん・・・世の中はデフレの時代を迎え、次々と競合勢力が台頭していました。
衣料品はユニクロさんやGAPさんに、ステーショナリーはマツキヨさんや100円ショップに取って変わられ、そして家具はニトリさんに。「わけあって安い」「百貨店の商品の7掛け」というコンセプトは全く通用しなくなっていました。社長になって、出血を止めて次に行かなければならないというようなことがたくさん出てきたのですが、最初は出血を止めるだけ。直近の課題をどんどん潰していかなければなりませんでした。
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