産創館トピックス/講演録

≪講演録≫無印良品流 人の育て方と仕組みづくり

2016.03.02

「全て“人”の責任」という一番幼い組織

人事の仕事は3年で全部やってしまいました。その後営業本部長となり食品部も販売部も自分の傘下でした。ある日営業課長にこの店の売上はどうしてこんなに悪いのか?と聞くと「人災」という返事が返ってきました。「人災」とは同じ会社にいてもあまり聞くことのない言葉でしたが、それは「店長が悪い」ということでした。

そして「人災」の場合の結論としては「店長を代える」でした。こんなことで競争力は高まらない。こんなレベルで組織の改革は進まない。これが当時の私どもの組織レベルでした。会社の総力で戦わないといけない時に、しかもやり方は経験値。これでは限界がありました。

一人一人は弱いので、ライバルに勝てる商品、お客様に満足してもらえる商品を作る。これを仕組みにするしか方法はない。仕組みにさえすれば、十分互角に戦えるものになる。仕組みづくりを施行し、そして最後には風土を変えないといけないという局面に達したのです。

この頃になると、メーカーさんから人に来てもらっていました。社長を1年間やって自分の器以上に大きくはならないと感じだしていましたので、社外取締役を招聘しました。必ず同業とメーカーから、そしてもう一つは証券などの金融からです。花王さんからも来てもらいました。品質の問題で相当苦労していたからです。

メーカーの品質管理と流通の品質管理の違いは大きい。私どもが100万分の100とか1000とかの数字で品質コントロールをしている時にメーカーさんは2桁違う。PPM、100万分の1~10の事故率、こういうレベルで管理をしています。また、ほぼ全員の社員が50銭とか1円を合理化することを考えるのです。つまりそういう会社が伸びてきます。この社風は真似できない。100年くらい続く企業にしないとまずい、と私は思い出しました。

そのためにはこの社風を作り上げないといけないと。

コンセプトの進化―「WORLD MUJI、FOUND MUJI」へ

最初にサブコンセプトを変えていきました。「わけあって安い」を変えてしまうと無印ではなくなります。でもサブコンセプトはお客様の変化によって変えていかなればなりません。「WORLD MUJI、FOUND MUJI」というコンセプトを考えました。WORLD MUJIは日本で生まれた無印ですが、イタリアとかドイツとか中国とかで生まれたらどういうMUJIになるのか?ということ。

発想をワールドワイドに変える。なおかつ世界を代表するクリエイターと一緒に作ることで、モノづくりを劇的に変えていこうということです。

FOUND MUJIというのは、私どもは西友時代から、チベットとかインドとか生活の中に長く残っているいいものを無印のコンセプトで商品にするということをやってきましたが、情報に差がない時代を迎えた今、更に国境を越えてよいものを探し、FOUNDするものを劇的に変えていこうということです。

そして販売力で引っ張って、商品開発をプルアップしていく・・・。お店を大きくするという拡大路線の中での商品開発の手法が限界を迎えていました。ビジネスモデルの大きな柱の一つが崩れていったのです。国境を超えないと次の時代を迎えられない、という基本的な考え方のポスターを作って、どちらかというと外よりは社内の意識改革に使いました。

商品開発の進化―ヨウジ・ヤマモト社との提携

2002年からヨウジ・ヤマモトさんと一緒にモノづくりを始めていきました。お互いにモノトーンという共通点もありました。彼はミラノもニューヨークもパリも、すべてのファッションショーに出店をします。そして作るトレンドは外れない。来年のカラーの傾向、ファッションの傾向をほぼ完ぺきにとらえていきます。

一方私どもは綿の紡績から入るというくらい大量に作り、それに対応していきます。モノづくりはちょうど1年かかるので、2003年の春物から合同商品部で作り出しました。お客様は正直です。無印の衣料品が変わった、と気づいてくれました。外に流れたお客様が戻り、新しいお客様が誕生していきました。このように衣料品は2003年になると急回復しました。

生活雑貨に関しては、シングルベッドと小さな冷蔵庫で生活を始める大学1年生のマーケットは無印の独壇場でした。そして就職をし、カップルになり、ファミリーになると、無印から卒業してしまいました。収入が増えるともう少しいいものを使い、いい生活がしたいと思うからです。分かっていても対応できませんでした。

デザインをしないデザイン部門「企画デザイン室」

ワールドデザイナーとファニチャーのマーチャンダイザーとのワークショップを開始すると、常にボールが私どもの方にありました。ワールドデザイナーから要求される注文に応えられないのです。そこで、デザインをしないデザイナー、企画デザイン室という機能を設けて、ようやくワークショップが回りだしました。イタリアのトップデザイナーはシンプルで十分な強度があって、そこそこのコストで作れる工場を持っています。

今まで大塚家具さんとかフランスベッドさんに移っていったソファーやベッドのお客様も、全て無印で買ってくれるようになりました。つまり30代の人に使ってもらう商品はもう大丈夫でした。このように商品力が大きく回復すると、右肩上がりに売上が回復していきました。原動力はやはりここ=商品力にあったようです。

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株式会社良品計画

名誉顧問

松井 忠三氏

http://ryohin-keikaku.jp/

「無印良品」を中心とした専門店事業の運営/商品企画/開発/製造/卸しおよび販売