≪講演録≫逆境経営~山奥の地酒「獺祭(だっさい)」を世界に届ける逆転発想法~
≪講演録≫2014年10月7日(火) 開催
【社長トークライブ】逆境経営~山奥の地酒「獺祭(だっさい)」を世界に届ける逆転発想法~
旭酒造株式会社 代表取締役社長 桜井博志氏
30年で売上げは50倍に
日本酒はこの40年間で売上げが3分の1まで落ち込んだ。昭和48年の出荷数量が史上最大で980万石(一升瓶100本で1石)だったのが昨年度は335万石だ。旭酒造は、同じく昭和48年に2000石の売上げを記録していたが、私が昭和59年に後を継いだときには700石まで落ちていた。10年で3分の1まで落ちた。それまでの日本は高度成長時代で、日本酒業界はまじめに努力していれば伸びた時代だった。ところが昭和48年のオイルショック以降はそれでだけでは伸びなくなった。
資金のあるところ、立地に優れたところ、知恵があるところ、技術力があるところ、だけが伸びていった。その中で私どもの酒蔵は負け組になっていた。ただ私が継いでから30年の間に数量で17倍、金額で約50倍まで伸びた。だからといって大変なことをしてきたわけではない。困ったことがたくさんあったので、それに対して、おろおろしながらここまで来たというのがだいたい私の正直な感想だ。ただ、あとになって考えてみると合理的な理由がいくつか見えてくる。今日はそれを皆様に説明したい。
伸びた理由はすべてマイナスの話から
伸びた理由は四つある。「単純に山奥の過疎地だったから」「県内で米が手に入らなかったから」「杜氏が優れていなかったから」「杜氏にFA宣言されたから」。いずれもマイナスの話ばかりだ。
まず「山奥の過疎地だったから」。私どもの酒蔵の隣にある小学校は全校生徒7人だ。熊や猿が普通に出る。つまり地元に市場がない。一番近隣の都市である岩国市の中でも地酒蔵では4番目の規模だったのでとても地元ではやっていけなかった。どこか他に売るところを探さないといけない。そこで県外に出て行った。最初に東京市場でそこそこ売れるようになってようやく飯が食えるようになってきた。
「県内で米が手に入らなかったから」。灘、伏見のほかに最近では東北、新潟、中国地方でも広島あたりは日本酒どころのイメージがある。だが、山口県にはない。県内でも地元の酒の評価が非常に低かった。とくに農業関係者の評価がひどいために、「こんな酒蔵に出荷したところで」と、なかなかいい米が入ってこない。
そこで自分で酒米を作ることを計画した。種籾(ルビ:たねもみ)を地元の山口県経済連(経済農業協同組合連合会)のルートでとろうとするのだが、3年続けて断られた。要は相手する気がなかったのだ。さすがに頭に来たのであるとき「今後一切、山口県経済連を通して1俵たりともコメは買わない」と啖呵を切った。それ以降1俵たりとも山口県経済連を通しては買わなかった。
昨年は私どもの酒蔵だけで4万3千俵の山田錦(酒米)を購入した。全国で38万俵生産されたそうなので、うちだけで1割強を購入したことになる。それができたのは、そのときに山口県経済連とけんかして以来、自分で岡山や兵庫の全農をはじめ商社や農家などあらゆるルートを使って購入、調達ルートを作ってきたからだ。
そして「杜氏が優れていなかったから」。私が酒蔵を継いだときに来ていた杜氏は、杜氏の中では若い方で、酒造りの経験が少なかった。また私も新米社長で、レベルがわからなかった。それなのに2年目に無謀にも純米大吟醸をその杜氏に造らせた。飲んでみたら純米大吟醸じゃない。香りは無く、口の中に含んだらとげとげしく、飲み込んだあとは変なクセが残った。