《講演録》縮小市場でどう戦う?零細ミシンメーカーが選んだ生きる道【前編】
《講演録》2021年6月28日(月) 開催
縮小市場でどう戦う?零細ミシンメーカーが選んだ生きる道
話し手:山﨑 一史氏(株式会社アックスヤマザキ 代表取締役)
聞き手:山崎 大祐氏(株式会社マザーハウス 取締役副社長)
株式会社アックスヤマザキは創業75年目のミシンメーカーであり、山﨑一史氏が2015年に3代目社長として就任した。業績不振下での事業承継でありながらも、自らの知恵と工夫によって、既存取引先への依存度の高いOEM事業主体から脱却し、コロナ禍においてもヒット商品を次々と生み出す製品開発企業へと生まれ変わった。その裏側にあった、商品開発秘話とリアルな経営改革ストーリーについて、株式会社マザーハウス代表取締役副社長の山崎大祐氏が聞き手役となって迫る。
◉アックスヤマザキの沿革~1代目・2代目の時代
山崎(大):最近ではデジタルシフトやSDGsといった言葉が企業経営のバズワードにもなっています。もちろんそれらも大事なことなのですが、今日はもう少しリアルな中小企業経営の話をしたいと考えています。日本経済の状況を考えると、今日この会場にいらしている中小企業経営者のみなさんも縮小市場で戦っている方のほうが多いのではないでしょうか。そういった縮小市場でどのように工夫をしてヒントやチャンスをつかんでいくのか、株式会社アックスヤマザキの代表取締役、山﨑一史氏に伺っていきたいと思います。まずはアックスヤマザキの沿革や現在の事業についてご紹介いただけますか。
山﨑(一):当社は終戦翌年の1946年、大阪市生野区で私の祖父が創業しました。当時ではいち早く国産オリジナルミシンの開発を手掛け、自社ブランド製品を海外輸出していました。しかし、円高で状況は急激に変化、債務超過の状態で2代目として私の父親が引き継ぎました。以降は国内生産+海外輸出ではなく、海外生産+国内販売に転換し、国内の大手ブランドのOEM製品として小型化した製品を手掛けるようになりました。業績は順調に回復していったのですが、2000年に主要取引先の廃業に伴う大打撃を受け、当社の売上げは急速に減少してしまいました。
会社の状態が悪化していることを父から告げられたのは、業績が悪化し始めてから何年も後になってのことです。父はいつも強気で体重も100㎏近くもあって、そんな父が弱音を吐くところなんてそれまで見たことなく、その姿を見て体に電気が走ったような衝撃を受けました。「これは自分がなんとかしないといけない」という思いで、当時勤めていた機械工具卸会社を辞め2005年に当社に入社しました。
◉アックスヤマザキの沿革~山﨑社長時代
山﨑(一):私が入社した当時もすでに国内の家庭用ミシン市場というのは右肩下がりの状態でした。実は過去20年の間にこの市場は半分以下と急速なスピードで縮小しています。私が社長に就任したのは縮小真っ只中の2015年です。
2012年頃から、ミシンは取り扱いが難しいというイメージを払しょくし、購買のハードルを下げるためのオリジナル製品開発に着手しました。知人や周囲へのヒアリングを通じて、小学校の家庭科の授業でミシンを扱って以来、「ミシンには上糸・下糸があって取り扱いが難しい」という印象をもっている方が多くいることがわかりました。そこで、上糸・下糸の機構をなくし、ミシン糸ではなく毛糸を用いる仕組みにし、簡単・安全に使える新機構の子ども向けミシン「毛糸ミシンHug」を2015年10月に発売しました。通常のミシンに触れる前の、いわば補助輪付き自転車のような位置づけのミシンです。2ヵ月で2万台という大反響を得て、多くのデザイン賞などをいただきました。
その後も、子育て世代向けの小型ミシン「子育てにちょうどいいミシン」や、シニア向けの「孫につくる、わたしにやさしいミシン」を発売しています。社長就任当時は赤字でしたが、2019年度には売上げ4億円で営業利益2,000万円、2020年度には売上げ10億円で営業利益は2億5,000万円と創業以来最高益を記録しました。
【第一部】経営者の人生曲線
三代目社長、苦悩の経営改革までの道のりとは?
山崎(大):売上げ高営業利益率25%は強烈ですね(笑)。しかしながらそこに至るまではさまざまな困難もあったかと思います。そのような困難を乗り越えた山﨑さんがどのような人生を歩まれてきたのか、アックスヤマザキに入社するよりもずっと以前のことから教えてください。若いころはアメフト部で活躍されていたころが幸福度最大とされていますね。
山﨑(一):子どもの頃は、幼稚園にジャイアンみたいな同級生がいて、その子にいつもいじめられていました。私は負けず嫌いな性格なので、いじめられた悔しさで泣いて、また余計にいじめられるという構図でしたね。ジャイアンに勝ちたい・強くなりたいという気持ちから体を鍛え始め、高校ではアメフト部に入りました。高校一年生のときからベンチプレスもやっていましたし、足にも自信がありました。ところが、ある日喧嘩をしてアメフト部をやめてしまいました。今思えば少し調子にのっていたのかもしれません。
そんな頃、例のジャイアンに街中でばったり会ったんです。私のガタイをみて、ジャイアンは震えながら当時のいじめについて謝ってくれました。その瞬間に自分が原動力としていた「強くなりたい」という気持ちが急に消えてしまった感じがしました。でも、強くなりたいと思ったら強くなれるんだ、という新たな自信はできました。一方で、アメフト部の仲間が活躍している姿をメディアで見るたびに、輝いている人とそうでない自分の格差を目の当たりにして現実を突き尽きられました。
山崎(大):チームメイトとの格差を感じて、幸福度が大きく下がっていますね。家業を継ぐような意識はその頃からあったのでしょうか。
山﨑(一):家業については、そのうち何かあれば継ぐのかな、くらいのぼんやりとした意識しかありませんでした。大学を出てからは機械工具卸の会社で営業をやっていました。営業成績伸び率はトップでしたが、会社の上層部からこの会社が何をめざしているのか・何が課題なのかについて語られたことはなく、違和感を覚えていました。この経験は反面教師として自分の中に常にあります。
山崎(大):その企業で3年勤めてから2005年にアックスヤマザキに入社されたんですね。事業承継前に他の会社で修行を積まれる後継者は多いかと思いますが、3年は短い方かもしれません。もっといろいろ勉強してから、という思いはありませんでしたか。
山﨑(一):私はそのとき周りの景色なんて見えていませんでした。自分に何が足りないか、何をすれば自分が役に立つのかなんてわからないまま、「とにかく自分がやろう」という気持ちだけでしたね。
山崎(大):先代社長のお父さんは入社に反対はしなかったんですか。
山﨑(一):反対はされませんでしたが、継いでほしいということも言われませんでした。父自身も、祖父の債務超過の時期に会社を継いで大変な苦労をしたからだと思います。実は、祖母からは「長男なんだから」と子どものころからほのめかされてはいましたが(笑)。
山崎(大):営業として入社されたときのアックスヤマザキの印象はどうでしたか。
山﨑(一):当時は、評価軸として売上げしか見ていなかったんです。取引先1社にほとんどの売上げが依存している状態でしたので、売上げを上げるならまずは販路開拓だと。なんとか取引先数を3倍に増やしましたが、小さい業界内での他社とのパイの奪いあいです。来年にはまた他社にひっくり返されるかもしれない、という恐怖心が常にあって、爪先でたっているような不安定さを感じていました。
山崎(大):入社後の幸福度曲線は「厳しい状況に打ち手が見つからず絶望」とありますね。そこから、新しい戦略の構想に向けて幸福度が徐々に回復しています。社長に就任される3年前の2012年のことですね。
山﨑(一):社外の人に話をきくと、「ミシンなんてまだあるの?」といわれてしまうくらい、ミシンの存在意義がないような時代でした。にもかかわらず、ミシン業界の体質は従来のまま。たとえば新製品を出すときは、他社と比べてこの機能が…という話に終始しがちでした。
ミシンの社会的意義とは何なのだろう、と改めて考え直していく中で、子ども向けミシンの発想が固まっていきました。このときに練ったプランを「大逆転戦略」と名付けたんです。恥ずかしい気持ちもありながら内心とてもワクワクしていたことを覚えています。
山崎(大):そして、2015年の事業承継のタイミングで再び幸福度が低下しています。このとき赤字1億円。
山﨑(一):まだ先ほどの子ども向けミシンも完成していない時期です。父としてはもっと業績が回復してからバトンタッチを考えていたようでしたが、父自身の体調の問題があり、このタイミングでの承継となりました。しかし、今思えばこの状態で事業承継できたことはよかったと思います。既存のやり方を全面的に否定することができましたし。社長交代式では「1年で黒字化の目途が立たなかったら、自分をアホと呼んでくれて構わない」と社員の前で豪語しました。
山崎(大):何か自信があったんですか。
山﨑(一):正直に言うとその場の勢いです(笑)。新規事業となる子ども向けミシンの開発に試行錯誤しつつ、既存事業はどのように進めていくべきか確証はありませんでした。無事に子どもミシンが完成し、2015年10月の発売開始とともに大ヒットしてくれて、これが自信につながりました。同時に、これまでのやり方では駄目なんだと、既存事業の改革の必要性を強く実感しました。
山崎(大):子ども向けミシンの大ヒットによって、幸福度はアメフトで活躍していた頃で同じくらいにまで上昇しましたね。そして既存事業を含めた全社改革のときにやや下落するものの、現在に至るまで幸福度は上昇を続けています。必ずしも順風満帆ではなかったかと思いますが、「辞めたい」とか「厳しい」と感じたときにご自身を支えたのは何だったんでしょうか。
山﨑(一):きれいごとを言うわけではありませんが、当社はミシン業界に育ててもらいました、だからこそ恩返しがしたいんです。私は当社が悪く言われるよりも、「ミシンなんていらない」って言われる方が辛いんです。
私の中では人生のできごとがすべてつながっていると感じています。学生時代に元チームメイトが活躍する姿を見て、自分との格差に打ちのめされ悔しい思いをしたからこそ、もう後悔するようなことはしたくない、という雑草魂が強く芽生えたのではないかと思っています。
>>>《講演録》縮小市場でどう戦う?零細ミシンメーカーが選んだ生きる道【後編】に続く
(文/原きみこ)
山﨑 一史氏(株式会社アックスヤマザキ 代表取締役)
2002年、近畿大学商経学部商学科卒業後、機械工具卸企業に入社。2005年に父(当時社長)から相談を受け、右肩下がりの状況を何とかすべく、1946年創業の家業である家庭用ミシンメーカー・株式会社アックスヤマザキに入社。2015年に赤字に陥った状況で3代目として代表取締役に就任。その後、新市場を開拓するため子供向けに開発した「毛糸ミシンHug」がヒット。2016年ホビー産業大賞(経済産業大臣賞)、キッズデザイン賞受賞。第2弾として子育て世代に向けて開発した「子育てにちょうどいいミシン」もヒット。2020年にキッズデザイン賞優秀賞(少子化対策担当大臣賞)、グッドデザイン賞金賞(経済産業大臣賞)、JIDAデザインミュージアムセレクションvol.22と国内デザイン賞3冠受賞。企業として「大阪活力グランプリ2020特別賞」に選出される。2020年度は創業以来過去最高益を達成。
山崎 大祐氏(株式会社マザーハウス 代表取締役副社長)
1980年東京生まれ。慶應義塾大学在学中にベトナムでストリートチルドレンのドキュメンタリーを撮影したことをきっかけに、途上国の貧困・開発問題に興味を持ち始める。2003年3月大学卒業後、ゴールドマン・サックス証券にエコノミストとして入社。創業前から関わってきた株式会社マザーハウスの経営への参画を決意し、2007年7月に取締役副社長に就任。2019年3月から代表取締役副社長。副社長として、マーケティング・生産両サイドを管理、年間の半分は途上国を中心に海外を飛び回っている。マザーハウスカレッジ代表、朝の情報番組「グッとラック」(TBS系列)の金曜日のコメンテーターも務める。