迷ったときはあえて いばらの道を選ぶ 逃げない 後悔はしたくない
家業を継ぐ気は全くナシ 充実したサラリーマン時代
学生時代は家業を継ぐ気はなく、先代である父も「お前の好きにやれ」と言ってましたし、私も若気の至りで「実家なんか死んでも継ぐか」と仲間うちに豪語したりして(笑)。大学卒業後は竹中工務店に入社し、上司や同僚にも恵まれ、サラリーマンとして出世していく野心も持ってました。何の不満もなかった。
ところが入社5年目のことです。会社からイギリスに留学することになり、父に報告すると、「海外に行ったら会社を辞められへんやろ!」と怒鳴られたんです。好きにやれといいつつも、内心は継がせたかったんやと知りました。「そんなもん知るか!」と反発しつつも、帰国後の約2年間は悩み続け、実家に帰るたびに親とケンカしてました(笑)。
最終的に決断したのは「逃げたらあかん」と思ったから。なぜ自分は継ぎたくないのかを考えてみたんです。「社長の息子が後継ぎとして入社すれば色眼鏡で見られておもろない」とか「会社員を続けてたら楽しくて充実した人生だ」とか、しんどい現実から逃げようとしているだけだと気付いたんです。「逃げずに求められていることに応えるのがとるべき道だ。いばらの道を選ばんかったら将来後悔する」と。
危機的状況の最中に自ら名乗り出た社長就任
32歳で入社し、営業や製造現場を経験し、やがて役員に。そして入社10年後に最大の苦難に直面しました。2006年、水門談合事件で公正取引委員会から関連する32社に調査が入り、当社にも半年から1年間の指名停止と3億円以上の罰金が課せられたのです。コンプライアンスの不備が招いた、まさに危機的状況です。
しかし私はこの2ヵ月後に社長に就任しました。私から父に「いまこの時期に継がせてくれ」と頼み込んだんです。父は親心もあったんでしょう。「こんなしんどい状況で継がせるわけにはいかん」と大反対。しかし「親父が会社を立て直してから社長になっとったらあかん。楽な道を選ぶと後悔する」と強い意志で訴え、父にも納得してもらいました。
とはいえ、社長就任時に銀行に挨拶に行って言われたのが、「よくもこんな時期に…ご愁傷様」。ホンマに悔しくて「いまに見とれよ!」と奮起した反面、正直言うと不安で生きた心地のしない日々でした。
とにかく1年間も、まともに営業活動ができない大変な状況ですが、視点を変えました。業界全体で水門製品の製造が一斉にストップしたということは、営業停止期間が満了したら発注案件が一斉に動き出すはずだと。さらに、この事件がキッカケとなって、業界の大企業が続々と撤退していったのです。そこで指名停止の期間に、来たる入札案件に向けて全力で準備した結果、目標物件の多くで受注に成功。結果として、過去最高の受注高を上げることができたのです。
でも、この難局を乗り越えたのは社員の努力の賜物。当社は80余年の歴史の中で幾多のピンチを脱してきました。「今回もきっと乗り越えられる」という社員と会社の信頼がベースにあったからこそ、全社一丸となって大きな力を発揮できたと思っています。
社長就任の挨拶で社員に言ったのは「強い会社をめざす」。父の信条「常に前向きに」を受け継ぎ、強い100年企業を築いていきたいですね。
株式会社丸島アクアシステム
代表取締役
島岡 秀和氏
1928年創業。従業員240名。創業83年の水門分野のトップ企業。水門、水処理、水環境など、水関連の幅広い分野で社会インフラ製品の提供・開発を行う。