【ロングインタビュー】ないならつくる、母としてのニーズが原動力「日本の心と英語の力」を育てるプリスクール
幼保一体型バイリンガル保育園を運営する(株)キンダーキッズ。創業の原動力となったのは「自分の子どもたちをバイリンガルに育てたい」という母としての想い。日本文化を身に付けることを大切にしつつ、英語環境の中で教育が受けられるとあって、創業から14年目の現在、全国18の拠点で展開するまでに成長した。子どもを預かることの重責に悩んだ日々を越え、いかにして飛躍を遂げてきたか。そのプロセスを聞いた。
―キンダーキッズと一般的なインターナショナルスクールとの違いとは?
インターナショナルスクールは基本的に、日本に住む外国人や帰国子女向けの学校です。英語を学べる環境ではありますが、どうしても日本語や日本文化から離れてしまいがちになる。感覚や所作まで外国人のようになってしまっては、逆に日本の文化に馴染めなくなってしまいます。
キンダーキッズが掲げているのは「日本の心と英語の力を両方育てる」。両親が英語ができなくても、子どもに海外生活の経験がなくても、日本に住むふつうの子どもが日本の教育を受けながら英語を当たり前に操れるようになる。それがキンダーキッズです。
―起業のための準備はどのようにされましたか?
結婚して2年半、専業主婦として過ごしました。それなりに充実していたけれど、「社会と関わりたい」、「仕事がしたい」という気持ちがむくむくと湧いてきて。週末だけ夫に子どもを預け、商工会議所が開催していた「起業家スクール」に通い始めました。3カ月間という、限られた時間でしたが、仕事のことだけを考えられた時間は貴重でした。
子どもをバイリンガルに育てたいという思いは母親としてもっていたんですが、インターナショナルスクールへの入学は難しく、入れないのなら自分でつくろうと思ったのが事業化のきっかけ。英語だけの環境を1日4~5時間確保しようと思ったら、保育園がいい。自分の子どもも預けられる。それがベースです。
もともと、10代の頃から起業したいという思いはありました。仕出し料理の会社を興していた母を見ていたからかもしれません。29歳の頃に起業を考え、30歳で立ち上げることを目標に動きはじめました。
―そして、本当に始めちゃったわけですね?
起業家スクールに通いながら、あちこちで「こんな保育園をつくりたい!」と夢を語っていました。そんな頃、知人から願ってもない申し出が舞い込んできたんです。東大阪で体操教室を開校するんだけど、その2階が空いているから借りないか、と。保証金はなしで、家賃は折半。その電話を受けた時、物件を見てもいないのに「やります」と返事をしました。30坪くらいの教室でスタートしたいと考えていたのですが、実際に借りたのは150坪。でも、「やります」と答えた以上、もうやるしかない(笑)。
それから内装業者さんを呼んで改装。廃校になった幼稚園から机やイスをもらってきて、夫と二人でペンキを塗って。新聞に折り込むチラシも夫と二人で作りました。どうすればいいのかわからないから、とにかく、なんでも自分たちの手でつくりました。生徒さんが何人くるかもわからないのに、外国人の先生を5人雇いました。今から考えると冷や汗が出ます(笑)。
―反響は?
「ほんとうに英語がしゃべれるようになるの?」と、毎日問い合わせの電話がかかっていました。一本の電話で1時間ほど話すから、最初の数カ月は一日中、しゃべりっぱなし。実績も何もないサービスにも関わらず、私の言葉だけを信じて申し込んでくださった保護者のみなさんには今も感謝しています。
年間の授業料をまとめて支払うところも多かったけど、うちは月謝制。「もし、違うと思ったらやめていただいていいんで、まずはやってみてください」とお話ししていました。幸いだったのは、教育サービスは前払いが一般的だったこと。入会金や月謝を先に回収でき、個人名義のカードを何枚も使いわけながら、なんとかキャッシュフローが回っている状態でした。
―最初の1年で3校立ち上げられたんですね
東大阪校の開校から2カ月ほど経った頃、不動産屋さんから電話が入りました。専門学校跡地のビルが八尾にあるからどうか、と。ビル1棟、400坪。これも詳細を聞かずに決めてしまったんです。チャンスを掴めるか掴めないかは、一瞬で明暗を分けると思っているので。
子どもたちは順応性が高いから、1カ月も英語漬けの環境にいたら、ふつうに英語を話すようになるんですよ。それを見た親御さんは、やはり感動されるんです。口コミもあり、生徒さんはどんどん増えて、70人の定員は3カ月ほどでいっぱいになりまた。自分が母親としてほしいと思っていたサービスに対し、これほど賛同してくださる人がいたんだと、大きな自信になりました。
―ビジネスとしての手ごたえを感じたのは、どの時点ですか?
2校目が軌道に乗り始めたころ「これは世の中から求められている。ビジネスとして本腰を入れてやっていかなければ」と実感しました。起業を決めた時、カナダ人の夫は「やりたいと思うならやれば?ダメになればやめればいいんだし」と言ってくれました。でも、生徒さんやスタッフが増えると「ダメになったらやめればいい」では済まない。日本の心と英語の力をつける学校として、大阪一になりたい。その頃に強く意識しました。すでに走り出して形ができていたから、大阪市北区、芦屋、西宮と続き、次へと繋がっていったんです。
当時、月謝は毎月現金で頂いていました。毎月の会計処理で机の上に、月謝封筒と現金を並べて数えるんですが、あの光景は、今も忘れられません。毎月、4万、5万という少なくない金額を、私を信じて預けてくれる親御さんがいる。保育士としての経験もない自分が、月謝をいただいて子どもさんを預かっている。あの時の気持ちは忘れてはいけない。そう思っています。
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