【ロングインタビュー】徹底的に自分に向き合って出した答えは「妻、母、経営者」
日本人の中のコリアン、男性中心の職場での女性社員、幼い子を育てながら起業した母…。常にマイノリティとしての自分に向き合い、物怖じせず前を向いて進んできた文氏。「社会の役に立ちたい」との思いは品揃え日本最大級のヘアアクセサリー通販ショップとして開花した。
―ヘアアクセサリーのネット通販で最大の品ぞろえと聞きました。
ヘアアクセサリーの製造・卸・販売をしています。販路の多くはネット通販で、WEB店舗が5つあります。商品SKUは1万点ほどになります。当初は、仕入れ商品だけを販売していたのですが、徐々に自社ブランド商品をつくるようになり、韓国と中国に合弁会社を持ち、工場を作りました。現在の品揃えは、オリジナル商品が1割ほどですが、売上げに対しては6割ほどを占めています。仕入れ品ですと、結局のところ他店でも販売できてしまうので、一生懸命品揃えをして売ってもむなしいときがありますからね。オリジナル化を図っています。スタッフは12人です。
―大学卒業後は生命保険会社に入社されたのですね。
私は在日コリアン3世なので、まずは在日の先輩たちがどのような就職をしているのか大学の就職部にいって「上場企業で在日コリアンが行っている会社があれば教えてください」と聞いたら「申し訳ないけど、医者や科学者ならまだしも、本名を使ってる文系の人は、上場企業にはいません。」と言われました。前例はなくてもやってみなわからへんなあと思って、たまたま日本生命に勤務している大学OBを訪問したのがきっかけでした。
それまで日本生命は関西での女性総合職の採用は京大、阪大、神戸大だけからだったそうですが、関関同立の中から一人だけ、という採用枠がその年にできたとのことでした。人事担当の社員の方とランチをしたときに、社員の方は日替わり定食を頼んでいるのに、私だけ空気を読まずに素でステーキランチを注文したんですよ。後から聞くと、「それがすごく気に入った」と言われて(笑)。そんな人いなかったんでしょうね。
―なぜ金融関係の会社を選んだのでしょうか。
親、親戚も含めて在日コリアンは自営が多いんです。自分が経営者になろうとは思っていませんでしたが、将来自営の人と結婚するかもしれないということはぼんやりと考えていました。それで単純に金融を学んでおけば役立つかなあと。3年生のときに勉強とバスケ部の活動の傍ら、ダブルスクールで会計の学校にも行っていました。ただ、就活は一生に1回、しかも新卒のときが大事だからそのときは全力で挑んで、それでだめならすっきりあきらめて会計の資格をちゃんと取ろうって思っていました。
―日本生命ではどんな仕事をされたのですか。
配属は融資部でした。大阪本社で2年間、中小企業向けの融資を担当して、3年目に東京へ異動になって、大企業の担当になりました。融資といっても大企業は無担保の信用貸しでしたし、私は契約書類などを作るだけですから、個性を出せる仕事ではなかったですね。もしかすると支社にでも出してもらえればもっと自分らしさとを活かせたかもしれません。でも人事の方から「外国籍のあなたを外に出すと、心無い人に傷つけられるかもしれない。支社は大丈夫でも、社外となると、そこは社内の努力では行き届かないことがあるからね。でも、その分、あなたをみて勇気を得る人もいるのだけれどね。」と言われました。
ただ、結果的には、硬い男性社会にいたからこそ、あとになってまったく逆の女性商材を一人でやろうという決断につながったので、良い経験でした。でも結局3年で退職。キャリアウーマンに、と言う思いもどこかにあったのですが、女性の先輩社員で別居結婚している人がいて、大阪の自宅から母乳を冷凍して朝一で東京に戻るような生活をされてたんです。まだ20代だった私には、自分にはこれは無理だなと。大企業の中では、私はいきいき出来るタイプではないのかもしれないなと。
―辞めて何をしようと。
当時私は韓国籍(現在は日本国籍を取得)でしたが、高校まで日本名で通していたので、多くの人は私を日本人だと思っていました。それまで韓国に行ったこともなかったし、韓国語も話せませんでしたしね。でも、「就職や結婚は(韓国籍という理由で)思い通りにいかないから」という話を周囲特に父から散々聞かされていました。どうせわかることなら、と大学から文の姓を名乗りました。
実は大学時代から6年付き合っていた恋人がいたんですが、親から結婚を反対されて・・・・。顔も育ちも思考も日本人とほぼ同じなのに、どうして就職や結婚になると壁が出てくるのかって納得できなかった。韓国に行って言葉や文化を知って、自分自身が納得してから結婚しようと思って、韓国の大学に留学することにしたんです。
韓国に行って、遠距離離恋愛と長引く結婚への反対で彼とだめになりかけて本当に悩んでいたときに出会ったのが夫です。彼は別の大学に留学していて、見るからに押せ押せの人でした(笑)。私の下宿を探し当てて、1週間後には私のところに引っ越してきたんです。同じ関西出身だったし、親は反対せえへんし。とにかく悩ませへんタイプの人で、相手の親の顔も、住んでいる家なども見ることなく結婚を決めました。条件を見ると、相手を値踏みし気持ちがぶれると思ったからです。彼も私も当時は学生で無職。それでも、彼は何かしらお金を稼ぐたくましさにあふれている人だなと思いました。
―子どもさんが2人生まれてから再就職を考えたのですね。
帰国後に結婚して、すぐに長男が生まれて、2年7カ月あいて次男がうまれました。30歳になって、そろそろ何か仕事をしたいなと思っていました。生保会社の融資部で働いた経験を生かして銀行なら勤まるのではないかと面接をだいぶ受けにいったのですが、小さい子どもを2人抱えているという事情がいやがられたのでしょうか、箸にも棒にもかかりませんでしたね。
でも実際には、もし子どもが熱を出したらどうしようと心配しながら働くのはどうなんだろうとの迷いもありました。それなら「自分で自分を雇用しよう」かなと考え、自分で起業しようと決めたんです。あかんかったときのことは何も考えませんでしたね。死ぬわけやないし、という気持ちでいました。当時、夫は、アメリカの電信会社でエンジニア。家族の貯金金額の200万円を私は勝手に会社の資本金につぎ込みましたが、夫も独立志向の高い人だったので「ふーん」みたいな感じで気にしていませんでした(笑)。死ぬわけやないし、ダメなら二人で屋台でも引っ張ればいいや、と二人とも楽観的でした。
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リトルムーンインターナショナル株式会社
取締役副社長
文 美月 氏
ヘアアクセサリーの製造・卸・小売。ヘアアクセサリーのEC サイトとしては日本最大級の品揃えを誇る。