起業家精神が日本を変える ~世界で勝つ経営戦略を創り出せ!~
【第一部】
目次
鋼材問屋を継がずに起業
本田 まず親不孝という言葉をキーワードにしながら、起業は親不孝かどうか、自分の体験に基づいて過去を振り返りながら話していただけますか。
加藤 生まれは東京ですが、大阪育ちです。小学校5年生の時におじいちゃんが亡くなって、親父が社長になりました。3代目のボンチです。大阪の立売堀西九条のあたりは鋼材問屋の集積地で、自分の実家もそこで鋼材の問屋をしていました。今続いてれば今年で60年ぐらいです。僕は4人兄弟で、親父は僕が会社を継ぐもんやと思ってたようです。僕も、おじいちゃんが亡くなってから、ぼんやりと将来は実家の家業継ぐと思っていたんですが、大学に入ってすぐ学生起業して、まぁ会社ごっこみたいなんに参加して、結構そっちの前頭葉が大きくなってですね。就職活動を始める頃には自分で商売やりたいなと思っていました。親父の敷いたレールに乗りたくないと思い、大学4年生の時には親父の勧めで、ある会社に就職が決まっていたんですが、東京に上京して計画留年しまして。そのまま僕は23年間東京から帰ってこなかったんで、会社は継がず、弟が継ぎました。親父は怒るという感じではなかったんですけど、まあ落胆したとは思います。
本田 学生時代にリョーマという会社に参加したのは、もともと起業家精神があったから?
加藤 そうです。高校に入った頃から、自分は将来商いやるんやろなって。それはやっぱりお父さんよりもおじいちゃんの影響が強かったですね。おじいちゃんは孫が20人くらいおって、僕は長男の長男だったので、物心ついたころから、「将来は商売をお前がやるんや」ってなことを酔っぱらったら言うてたので。
本田 そこから、ダイヤルキューネットワークの設立に参画したんですね。
加藤 1991年の3月に大学を卒業して、ダイヤルキューネットワークっていう会社をやるために上京したんですね。それで、これから上場や、とか世界一や、とか思ってたら次の月に潰れたんです。親にも出資してもらって、大見得きって出てきた手前、会社が潰れたこともよう言いませんでした。結局、日広(現GMO NIKKO)という広告代理店を92年5月にこしらえたんですけど、3回目の決算出たあたりで、親に白状しました。「実は出資してもらった会社、上京して1ヵ月で潰れた」と。だから5年くらい黙ってたことになります。ただ、親は今も大事にしてますよ。3年前に鋼材問屋の会社は閉めましてね。弟もそれまで社長やってたんですけど、営業譲渡した先で役員を務めて、今年退任しました。
ゼロからの再スタートめざし、シンガポールへ
本田 で、日広(現GMO NIKKO)をGMOグループに売却した。
加藤 売却というとかっこいいですけど、実際は経営に失敗したんです。ネット系の広告代理店だったんですけど、2006年1月に堀江貴文さん(当時ライブドア社長)が逮捕されて、ネットベンチャーの市場が総崩れみたいになりましてね。ガタガタと業績が悪くなり、2007年の年末に売却を決意して、翌年5月にGMOインターネットグループの傘下に入ったわけです。売却といっても二束三文で、お金はほとんどもらっていません。でもお客さんと社員を守らなあかんでしょ。リョーマの専務がGMOグループの専務をやっていたこともあり、GMOやったら安心できるなと。
本田 失敗がきっかけでシンガポールに移りましたよね。何があった。
加藤 東京の表参道でその広告代理店をやっていたんですが、広告代理店って商品は言い換えると人間なんですね。仕事が属人的で、加藤君に仕事頼んでるよって人がお客さんの1/3くらいだったと思います。だから、日広をGMOに譲って、私がまた起業するとお客さんが私の方についてきてしまう可能性もあったし、東京では起業できないなと。だからといって大阪に帰るという選択もなかったんです。そうすると、当時40歳になったばかりで、リョーマの役員になってからちょうど20年。ベンチャーの経営をやってきた中で、1回リセットしてゼロから新しくできるとしたら、年齢的にも最後のチャンスかなと思って、何もないところでゼロからやってみようと。知り合いもおらん、英語もしゃべれん、何かようわからんけど。シンガポールなら誰もついてこないでしょさすがに。それでシンガポールに行きました。
本田 シンガポールに行って何するかは、行く前に考えてたの。
加藤 実は日広って会社こしらえてから、2006年の夏まで14年間ずーっと単月黒字だったんですよ。ところがライブドアショックでそれまで10億あった月商がわずか7ヵ月で5億まで減りました。広告代理店って大体粗利益率で15%なんです。粗利益率15%の商売で当時従業員が連結で200人くらいおったんですけど、それがいきなり売上が半分になったらどうなると思います。つぶれるんですよ。ほんで最後1年くらいは火の車でした。個人的にも会社の財政も。毎晩家帰っては会社でしづらい借金の話とか、資金繰りの話を夜中までやってたんで、家の者も精神的に参りますわね。個人で貯めてた預金を会社手放すまでの1年半くらいで半分以上失ったんです。だから東京におると借金の話しかしないし、僕も精神的にアンダーだったんで、もういったん誰も知らないところに行こうということで、シンガポールに行ったんです。だから最初の1年くらいはぶっちゃけ何もしてなかったですね。リセットのために行ったみたいな。
本田 ここは多分ポイントの1つやと思うんですけども、失敗がきっかけになって起業するってものも、実はありなんですね。実は僕が「あまから手帖」辞めたのも同じです。失敗です。部長としての。それで自分でクビきって、やめて今の仕事始めたんです。そういう意味でいうと、リセットするときに、マイナスからリセット、あるいはマイナスからスタートっていうのは実は全然ありなんです。スタートはどこからでもできるということです。
「会社はやるな」という父の教えに反発
本田 ここで徳重さんのお話に移ります。親不孝のお話はありますか。
徳重 私は山口県の出身で、田舎の人ならわかると思いますけど親がめちゃくちゃ厳しいんです。うちの親は特に厳しくて、小さい頃から毎日説教の時間というのがあって、正座させられて聞かされていました。『保証人になっちゃいけない』とか。でその中に『会社はやってはいけません』というのがあって(笑)、とにかくいい大学に入っていい大企業に入るのがお前の幸せだと小さい頃から躾けられてたんです。昔は真面目だったんで、親の言うことを聞いてたんですが、途中から何か違うなと思い始めたんです。
なぜそこまで親父が言うか理由がありまして。うちの親父は新日鉄のサラリーマンだったんですけど、おじいさんは地元で大きな木材業をやってたらしいんですね。で、石炭から石油に変わる流れの中で、政府の規制もあって潰れちゃったらしいです。親父は当時中学生で、お坊ちゃまの世界から突き落とされて悲惨な目にあったみたいです。本人はとても頭が良かったらしいんですが、結局スッテンテンになって大学も行けなかった。新日鉄は学力主義だから中学、高校で自分より勉強ができなかったやつがどんどん出世して、自分はずっと現場だったんです。だから僕には、いい大学いい大企業に行けと。そこで部長まで行くのがお前の幸せだと言われたんですね。
ところが僕は、大学に行くときに広島の予備校で浪人生活を送っていました、そういう時って、勉強ってやり続けないといけないのかなって考える時があるじゃないですか。当時、自己啓発の本にハマってて、その中に出てくる人で多かったのが起業家なんです。例えば、松下幸之助さんとか本田宗一郎さんとか稲盛和夫さんとか。九州大学行ってからも、起業に関する本を読んだりセミナーに行ってたんですけど、相変わらず親父は同じことを言っていました。それで僕の折衷案としては、とにかく海外が結構好きだったんで、世界で大きなことをやりたいなというのがあって、それならソニーとかホンダとか商社かなって。
僕は工学部の応用化学なんです。なぜかというと、親父が選んだんです。山口県って化学会社が多いんですよ。長男なんで最終的に帰ってくるってのが親父の夢なんです。でも僕は経済学とか経営のほうが関心が高かった。でもソニーとかホンダは山口県にはないし、海外行くのなんて親はもっと嫌だった。だから親父とは大ゲンカして。「そんなに言うんだったら縁切って行け」と。当時の僕はそこまでできなかったから、しょうがなくNTTに行こうと思ったんです。でも結局就職活動の途中で自分には合わないと思い、NTTはあきらめました。ところがもう6月になっていて、行ける会社は銀行と損保と生保しかなかった。その中で自分を評価してくれそうな会社が住友海上だったんです。
自分はこういうことをやりたい、ということを嘘つかずに言って一番評価してくれたのがその会社だっ。た。あとで分かるんだけど、結局みな損保には、給料が良くて安定してるという理由で入っていて、僕みたいに世界でチャレンジしたいと言う人はいなかった。やっぱりズレが生じてくるわけです。それで僕は大阪本社の結構いいところで5年間やらせてもらったのですが、4年目くらいに「原点に戻る必要があるな」と。要は会社に染まって生きるのか、自分の道を生きるのかの決断を29歳の時にしたんです。その時はすべてを捨てる気でしたね。そのことを親父に相談しようものなら、引き止められるのは分かっていたので、言わずに辞めました。でも一応育ててもらった恩があるじゃないですか。だから辞めた後に報告に言ったら、今でもよく覚えてますけど、すごくうるさい親父が震えて声が出てないんですよ。もう2分くらい震えて。横でお袋は泣いてるんですよね。それで僕そんなに悪いことしたかなぁと。で当時から付き合ってた恋人がいて後に結婚するんですけど、その義理の母からも「とんでもない奴に引っかかった」とか言われて。そういうことがあって、シリコンバレーに行ったんです。