《講演録》洋菓子店「五感」が明かす成功の秘訣。ブームを超えた洋菓子店の軌跡
《講演録》2022年11月12日(土)開催
【起業 STEP UP フェスタ 2022】
“大阪を代表する”洋菓子店「五感」を創り上げるまで
ブームに惑わされない本質を追求した洋菓子店オーナーの創業ストーリー
浅田 美明氏(有限会社五感 代表取締役社長)
デパートの催事を機に生まれ、現在9店舗(チョコレートブランドを含む)を展開する洋菓子店「五感」。大阪発ブランドとして広く愛される洋菓子店へと成長した同社の創業ストーリーとともに、「美味しくて喜ばれるお菓子をつくろう」というブランドに込めた思いについて、同社代表の浅田美明氏に語ってもらった。
☞ 赤字の洋菓子店を黒字に
有限会社五感は、現在305人の従業員が支えてくれています。梅田店の開店は2003年ですが、創業のきっかけは父が約70年前に北大阪の10坪ほどの場所で、洋菓子の卸業を始めたことにあります。その後、洋菓子の小売店「プチプランス」を東淀川区に出店した父のもとで、私も子どもの頃から菓子作りを手伝わされていましたが、父の跡を継ぐ気は一切なく、大学へと進学しました。
その後プチプランスは赤字に転落し、呼び寄せたシェフたちも店を離れていきました。私もバウムクーヘンなどの焼き方は中学生のころから知っており、多少はシェフにも教えてもらっていましたから、無理やりながら手伝わされていました。
そのとき若いながらに感じたのは、「自分たちのような技術レベルで、高級店と同じような値付けをして売れるわけがない」ということでした。当時は全国チェーンの洋菓子店の全盛期。品質を高める努力を続けるけれども、下町で親しまれるような値段にすべきということで、値付けなどを改め、徐々にですが黒字化していくことができました。
ただ、私は店頭に立って顔の見えるお客様に喜んでもらえるものを、と菓子づくりを続けていましたが、父は元が卸業ですから、生産効率をいかに上げるかに焦点を当てていて、考え方の違いからかなり喧嘩もしました。その結果、私は独立することになり、32歳のとき、10坪ほどの店を茨木市に開きました。
☞ 確執があった父からの事業継承
お客様に好きになってもらえる店とはどのようなものでしょうか。おいしさはもちろんですが、なぜか「行きたい」と思ってもらえる店というのがあります。私はちゃんとした修業をしたことがなかったため、独立後は独学で全国の洋菓子店に足を運び、勉強していきました。しかしその後、両親が共にがんを患い、回復して今も健在ではありますが、そのことを機に自分で始めた洋菓子店と父の店を合併。1995年、プチプランスとして再スタートすることになりました。
事業拡大のきっかけとなったのは、それから5年後、阪急うめだ本店での催事に大阪の仲間とともに出店したことでした。その時考えたことは、地域密着型のケーキ屋さんが出すケーキと、西日本で一番と言われる百貨店で出すケーキは「イコール」ではないだろうということでした。ではどういうケーキを出すべきか。そう考えた時、浮かんだのは戦後の厳しい環境を生き抜いてきた両親の「食べ物を大切にしろ」という、いたって当たり前の教えでした。
あれほど食糧難であった時代から、現代では食品廃棄の問題、食料自給率の低下など、食べ物に関する問題が山積しています。こうしたことを背景に、「日本の農家さんたちとお菓子をつくろう」と思ったのです。「お米の純生ルーロ」というヒット商品は、この時生まれたものです。
グルテンを含まないお米のケーキは、厚みを出すことができないので、薄く焼いてロールケーキにしました。母の故郷でもある丹波の黒豆を、中にはさんで商品にしました。これが「火・水・土・風・愛」をテーマに国産にこだわった洋菓子ブランド「五感」のスタートになりました。42歳のときのことでした。
☞ 北浜に構えた本店とまちづくり
その後、阪急百貨店さんだけでも6億円近い売上げを出させてもらうほどに会社は成長していきましたが、自分の仕事は何かと問われれば、もちろんまずはお客様に喜んでもらうこと。そして、従業員とその家族を幸せにすることと私は今も答えます。
自分にとって一番身近な人を幸せにするようなお菓子屋さんにしなければならない。それでこそお客様や地域に受け入れられるのだと考えています。そのようなことを考えていたときに、阪急うめだ本店の建て替えが決まりました。建て替え後の入居もオファーいただいてはいましたが、「『テナントを出ていってくれ』と言われたらどうしよう」「五感を続けていけるだろうか」という不安もありました。
デパートへの出店は、漁に出ている漁船のようなものです。船にはやはり帰るべき港がいる。地に足のついた本店をつくらないといけないという思いはあったものの、京都には和菓子が、神戸には洋菓子が根付いている一方で、「粉もんの街」大阪で洋菓子が根付くだろうかという疑問も感じていました。
そうした不安も抱える中で、2005年頃に北浜にあったステーキ店が退店することになり、その場所を使わないかとお声がけいただきました。地下1階から地上2階までまとめて使ってほしいというオファーで、正直足が震えました。けれどもこんな良い場所を本店にできるのならやってみたい、という思いが勝ちました。以来、自分の店だけでなく、この船場、北浜の街が楽しく賑やかになるような状況をつくりたいと思って取り組み続け、今では町会長をさせてもらうまでになり、ありがたいことだと思っています。
☞ 「五感」のコンセプト
父とは喧嘩もしましたが、五感のコンセプトを考えてみると、両親からの教えを守っていることに気づきます。「日本の農業を活かし、日本人の心に響く洋菓子をつくる」というコンセプトは、裏を返せば「食べ物を粗末にするな」「お世話になった方への恩を忘れるな」という教えでもあります。
一方で、時代は急速に変わっており、リモートワークも進展しています。お菓子を作り、それを店頭で販売する。大量に製造してつくり溜めすることもできない洋菓子の販売業というのは、今の時代の中にあっては非常に厳しい事業でもあると感じています。そしてこれからの時代は確実に人材不足になるでしょう。
この20年は国産素材で洋菓子をつくるということに専念してきましたが、これからはそこになにかを「プラス」しないといけなくなるはずです。大阪・関西万博を起爆剤にして、私どももどのように進化していけるか。そして、観光立国として世界から多くの人がやってくる中で、大阪という街をどうブランド化していくか。仲間たちと一緒に考えて菓子づくり、ひいては街づくりをしていきたいと思っています。
☞ 腹を割って向き合うからこそ
これから起業を考えておられる方もいると思います。私も、ここまで来れたのは利他の精神でもなんでもなく、会社を大きくしたい、つまりは儲けたいという精神だったと思います。それも間違いではない。けれども今、60歳を過ぎて今感じることは、一緒に仕事をする仲間と腹を割って仕事をしていくことの大切さです。
弊社では月次の決算書を従業員の皆さんにも見てもらいます。役員の給与も従業員の給与も全て載っています。そこまで腹を割って向き合うからこそ、本当に心から通い合えるような仲間ができるはずだし、会社の中にぬくもりが生まれてくるんじゃないかと私は考えます。
経営にはいろいろな考え方がありますし、私自身も故・稲盛和夫氏の経営論や中国の古典籍なども勉強しましたが、やはり経営者として「相手のことを思っているか」と、常に自らに問いかけることが大切だと感じます。「これをやったら従業員が困るんじゃないか」あるいは「相手先が困るんじゃないか」。折に触れて立ち止まり、そう考える基準があれば、経営に大きな間違いは生まれないはずだと思うのです。私はそうしてきました。
仕事とは人の役に立つことです。自分がやりたいことがそのまま仕事になればそれに越したことはありません。しかし、やはり事業というものは、社会で必要とされるものを提供することであって、その中で自分の思いをどう表現していくのか。誰かの役に立つために、誰かに喜んでもらうために、という基準で考えていかないとならないだろうと思います。
(文/安藤智郎)
1960年生まれ。大学に通いながら19歳で菓子職人の道に入り、1992年、32歳の時に独立。2003年に阪急うめだ本店にて「五感」オープン。2005年大阪・北浜に「五感」本館を構える。2016年2月には大阪高麗橋にカカオ豆からチョコレートをつくるチョコレート専門店「カカオティエゴカン」を出店。五感創業より「自然と愛」をテーマに、日本人のこころに響く洋菓子の美味しさを求めて、素材を探し、人との出会いを大切にした菓子づくりを行っている。