いつの時代も勝つ人は勝つ
生まれ育った地元の八尾で3店を繁盛店に育てた曽我氏が3年前、4店目の出店先として選んだ立地はミナミの繁華街。「地域一番店」の自負を胸に勇躍乗り込んだが、「お客さんは来てくれて当たり前という環境にどっぷり漬かっていた」その思考回路で通用するわけはなかった。「食らいついてでもこのお客さんを常連客にしたる」との思いでお客さま一人ひとりに元気のいいあいさつを徹底。カウンター越しに「おいしいのが焼けましたよ、どうぞ!」と焼き鳥と一緒に笑顔を届けた。周囲の経営者がどん欲に勉強する姿勢に刺激を受け、ジャンルが異なる料理店に通い、メニュー開発に活かした。ほどなく店ははやり始め、1年後に西梅田に、またその1年後の昨年には千日前にと順調に出店を重ねている。
父親が豆腐店を営んでいたこともあり、もともと独立志向は強かった。「はじめは漠然と創作料理の店かカフェを開くことを考えていた」。親戚が佐賀県唐津市で営む焼き鳥店で修業した後、鶏を扱う精肉店で鶏の目利きを学ぶうち、その奥深さと生産者の情熱に魅せられ、「自分に合っているのはこの世界」と焼き鳥店を開くことを決心した。
「1店に億単位の投資をした」「家賃300万円のテナントで店をやっていた」…。好景気の時代を知る経営者からそんな威勢のいい話を聞くことはあってもうらやむことはない。26才で曽我氏が八尾に1号店を開いたときに考えたのは、「百年続く店」だ。そのためには「地域の人に愛される店、何度でも来たくなるような店にしなければならない」と、従業員にも元気なあいさつを繰り返し練習させた。限られた投資額の中で、居心地の良い空間にするため、内装には木を多用。八尾にある多くの精肉店から鶏肉を取りよせ、一番信頼できる商品を扱う店を仕入先とした。その店とは店舗網が広がった今もなお大切に取引を続けている。「当たり前のことを当たり前にできる人が少なくなったからこそ、当たり前のことに価値が生まれる」と曽我氏は言う。
創業から10年の間に5人が独立して店を構える。「自分を追い抜かすやつが出てくれば自分も負けじとがんばろうと思える」。だからこそ「俺をどんどん踏み台にしろ」と社員を挑発する。しんどい時だって時代のせいにしない。実績を上げる先輩、後輩を見て思うのは「いつの時代でも勝つ人は勝つ」ということだ。首都圏、さらには海外への出店も目標に掲げ一歩一歩前進を重ねていく。