「家業の歴史を守るのが自分の責任」100年続くちょうちん屋が挑む次の一手とは
店内に入ると、サイズもかたちも異なる色とりどりのちょうちんが目に飛び込んでくる。
大阪でちょうちんをつくり続けて95年の秋村泰平堂。生國魂神社近くで番傘を扱っていた商家に秋村留太郎が養子で入り継いだ大正10年を創業年に定めた。「戦争で店が消失し、それ以前の歴史を辿ることはできません」と敬三氏は言う。
ちょうちんをつくり始めたのは初代の時代から。今も昔も手作業で、木型を組み、そこに竹ひごを巻き付け和紙を張る工程と、文字を書き上下の枠を取り付ける工程に大別される。同社は一貫生産が可能で文字書きの名人もいたことから注文が絶えず、戦前戦後からバブル時代にかけて繁盛してきたという。
ところがバブル後は需要が減って職人も高齢化。それでも現会長で3代目の泰三郎氏が「でけへんて言うたらあかん」を信条に家業を守りつないできた。4代目が家業に戻ったのは2004年、26歳のとき。「すでに斜陽産業で『ちょうちん屋で食っていけんの?』と周りから心配されました」と振り返る。
そんな4代目に勇気を与えたのが、中小企業家同友会のメンバーのひと言。「売上100億円の企業も歴史には敵わない。歴史ほど強いもんはない」。その言葉を聞いて「家業の歴史を守るのが自分の責任」と覚悟を決めた。
歴史を絶やさないためには手作業の職人技を守る必要があるが、最盛期に10人いた専属職人はいまや1人。「そこで伝統技術を細分化し、技を継承しやすい仕組みづくりに取り組んでいます」と同氏。
守りを固める一方で新たな挑戦にも積極的だ。金魚を愛でるアートアクアリウムとのコラボから始まり、BEAMSJAPANとのコラボも実現。店舗のファサードをちょうちんで飾る斬新な企画にもチャレンジした。
新しい取り組みの目的は、多くの人にちょうちんを知ってもらうこと。「残したいのは、あくまで伝統的なちょうちんです」と断言する。今後は空間装飾から施工まで手がける構想を描くほか、「ちょうちんを主に資金を集めて祭りを企画したい。ちょうちんはコミュニケーションを生み出す可能性を秘めていますから」。新たな挑戦なくして歴史なし―― 4代目の奮闘は続く。
(取材・文/高橋武男 写真/福永浩二)