「ミシンで世の中の役に立つ」 売ることから課題解決へと思考を変える
家業である家庭用ミシンの専門メーカー、株式会社アックスヤマザキに山﨑氏が入社したのは27歳の時だった。ある日、2代目社長である父に呼び出され、「実は会社がかなりピンチだ」と告げられた。それまで会社を継いでほしいと言われたことはなく、ましてや父が弱音を吐いたところなど一度も見たことがなかった。その姿に衝撃を受け、「自分がなんとかします」と即答した。迷いはなかったが、やれる自信も根拠もなかった。
山﨑氏はその頃のことを「後悔ばかりで腐っていた時代」と話す。高校で始めたアメフトをやめてしまい、大学では打ち込むものが見つからなかった。そんな時、当時のチームメイトたちが全国大会の決勝戦を闘い抜く姿をテレビで観る。「きらきらと輝く彼らと自分との間には大きな差がついている」。その劣等感は社会人になってもぬぐえなかった。
そんな気持ちを引きずったまま同社に入社。「当時は他社向けのOEMが大半で、売上げはピーク時の3分の1以下。社員には負けグセがついていた」と振り返る。山﨑氏も営業に出かけたが、思った以上に苦戦。「ミシンも、会社も、そして僕自身にも存在価値がない。まさにトリプルパンチの心境でした」。
打開策のヒントをつかもうと経営セミナーやビジネススクールに通い、そこであることに気づく。かつて一家に一台あったミシンがなぜ必要とされなくなったのか。周囲に聞いてみると“小学校で使い方を習ったけれど、難しくて嫌いになった”という声が多かった。「あ、ミシンのせいなんや」。自社製品を売ることだけを考えていた山﨑氏が、世の中の課題に目を向けた瞬間だ。その時のことを「内向きの思考が外向きに変わった」と表現する。
そして発案したのが『毛糸ミシンHug』。毛糸をかけるだけで簡単に安全に操作できる子ども用ミシンだ。「これなら子どもたちにもミシンを楽しんでもらえる」とわくわくとした気持ちで会議に臨んだが、物事は簡単には進まない。当時の社長(父)は提案を聞くやいなや「会社を潰す気か!」と書類を投げ、会議室を出ていった。「当然です。3代目候補がいきなりおもちゃのミシンを出してきた。具体性もない。ほんまに大丈夫かと問われたんだと思います」。
そんな中の3代目社長就任である。期中での代替わりで、その期は多額の赤字予想が見込まれていた。「やるしかない。今期の赤字は最小限にする。1年で意地でも黒字にするからとにかくついてきてほしい」と社員に誓った。
前途多難な事業承継だったが、事業の芽は育っていた。「会社を潰す気か」と言われた『毛糸ミシンHug』は3年かけて試作品を作り、特許をとっていた。山﨑氏も自ら大手玩具小売店へ営業に出かけ注文を取ってきた。その甲斐あってか、同製品は2万台を生産するも2か月で完売。反響が大きく、会社の電話は鳴り止まない。在庫はないのかと直接会社へ購入にくる人も現われた。負けグセが染みついた会社の雰囲気は一変。宣言通り、翌年は黒字になった。
その後の快進撃は数多くのメディアが伝えている。コロナ禍で大ヒットした『子育てにちょうどいいミシン』を始め、男性に向けた『TOKYO OTOKO ミシン』、年配者も使いやすい『わたしにやさしいミシン』など、使う人のための機能を備えた製品を次々に打ち出している。「うちはミシンの会社なのでミシンを通して世の中の役に立ちたいんです。それも使う人が“おもしろい”と思ってくれるものをつくりたい」と山﨑氏。もう一度、「一家に一台」をめざしている。
(取材・文/荒木さと子 写真/福永浩二)
Motivation Graph〜事業承継で最も困難だった3つのできごと〜
■1998(20歳)
元チームメイトとの人生格差
高校では1年生からアメフト部のレギュラーだったが、ちょっとした出来事からやめてしまう。元チームメイトたちはアメフトを続け、試合でもその後の就職でも輝いていく。格差を感じて腐っていた時期。
■2005(27歳)
事業の先行きが見えずに絶望
家業に入ったものの、ミシン自体の需要が減る中で他社向けのOEMが主体のため、経営が左右される。売上げが目に見えて減っていく状況に“打つ手なし”と落ち込んでいった。
■2015(37歳)
赤字予想のなかでの社長就任
1億円の赤字が予想される中、3代目社長に就任。「1年で必ず回復させる」と社員たちに宣言し、改革を実行。世の中の課題を解決する外向きの思考事業がやがて芽吹いていく。