ものづくり

《講演録》「スーパーカブ」ロングセラーのひみつ

2024.05.17

2023年11月15日(水)開催
【事業推進セミナー】「スーパーカブ」ロングセラーのひみつ
講師 高山 正之氏(元本田技研工業株式会社 ブランド・コミュニケーション本部広報部 二輪広報課主任)

本田 宗一郎氏が総指揮を執って開発した原動機付自転車「スーパーカブ」は、1958年の販売開始から大ヒットを続け、本田技研工業の代名詞的製品にまで成長した。根強かった業務用のイメージを一新したタイプも開発され、これまでの顧客層と異なるユーザーの獲得にも成功し、大ヒットを続けている。今回の事業推進セミナーでは、スーパーカブの広報活動を25年間にわたって主導してきた高山 正之氏に、開発ストーリーから顧客ニーズの変遷に合わせたブランディングなどについて語ってもらった。

 

■ 自身もオートバイの大ファン

山形県の農家に生まれた私は、10歳のとき初めてスーパーカブに乗せてもらい、中学生のとき友人の影響でオートバイのとりこになりました。

16歳で自動二輪の免許を取り、バイクの仕事がしたいと高校の先生に相談したところ、ホンダを紹介してもらい、入社試験を受けることになりました。ところが試験当日、各駅停車の電車に乗ってしまい10分以上も遅刻してしまいました。そこで万事休すのはずが、なぜか駅に軽自動車が迎えに来ていて、その荷台に乗せられて試験会場へ。その後、無事にホンダに入社することができました。

ホンダでは最初の4年間、自動車の組み立てに従事しました。あるとき、当時の係長から「本社に1名欠員があるから、おまえ行って来い」と言われて広報部門へ異動。そこは「バイクの遊び方をいかに考えるか」というような部署で、以来65歳までさまざまな企画を考えてきました。

 

■ スーパーカブ開発ストーリー

1958年8月、スーパーカブの初代となる「スーパーカブC100」が発売されました。2017年には世界での累計生産台数1億台を達成し、世界で一番生産台数が多いバイクとなっています。

あらためて振り返ると、ホンダのルーツは、太平洋戦争が終わったのちに創業者の本田宗一郎が、奥さまの買い物の役に立つものを作りたいと、エンジンの動力で自転車をこぐ必要が無い乗り物を開発したことにあります。「原動機付自転車」すなわち「原付」のルーツが、ホンダのA型です。

1952年にカブF型という赤のエンジンに白のタンクのモデルが登場し、大ヒットしました。ただ、他のメーカーも同じような製品をすぐに作り、特にスズキはホンダを凌駕する性能のものを作っていました。

そこで、大衆が求める次の新たな商品の開発が急がれました。1956年、本田宗一郎と藤澤武夫の名コンビがヨーロッパに視察に行きました。当時の欧州の二輪市場をつぶさに見て、日本にヒントになるものを持って帰ってきました。そして彼らが決意したことが、ヒトやカネを問わず新しいものを生み出そうということでした。

結果、約1年半で製品ができます。スーパーカブは後に新聞や郵便の配達などで活躍するようになりますが、本田宗一郎は手放しで運転できる変速にしようと自動遠心クラッチを開発しました。高性能なエンジンと自動遠心クラッチによって誰でも気軽に乗れるような乗り物にしたのです。

さらに、当時の日本にはなかった17インチのタイヤも特徴です。風よけや泥よけには、当時としては革新的なポリエチレン樹脂を使いました。こうした新スタイルのスーパーカブは革新的で夢のような乗り物だったのです。

初代スーパーカブ

 

■ ロングセラーのきっかけとなった広告

スーパーカブの販売開始2年後には、大々的な広告展開が始まりました。この宣伝広告を担当したのが、東京グラフィックデザイナーズの創業者の尾形次雄さんという方です。このころ週刊誌に、新潟から丁稚奉公で蕎麦屋さんにやって来た少年のワンシーンが、スーパーカブの広告として載りました。

すると、全国の蕎麦屋さんから「うちでも蕎麦の出前に使いたいから売ってくれ」と本田技研に電話が入るようになり、スーパーカブは一躍、蕎麦屋さんの出前用として認知されます。ワンシーンに使われた少年の蕎麦屋さんは「兵隊家」という店で、この店はいまも田園調布にあり、スーパーカブの愛好者が集まる場所になっています。

スーパーカブを日本のビジネスモデルとして成功させたホンダは、その直後にアメリカに初めて現地法人を作りました。アメリカの主流は650ccで、ホンダの小さいバイクを持っていくとさっぱり売れなかったそうです。それでもさまざまな方々がスーパーカブに乗っている様子をPRし、アメリカのバイクに対する認識を徐々に変えていったことが、ホンダがアメリカで成功する一つのきっかけになりました。

アメリカでの成功を受け、ホンダは東南アジアにも進出します。海外進出の際、ホンダはまず二輪を「先鋒」として送り込みました。四輪車において当時はまだ知名度がない中で、バイクで地域の方々にブランドの信頼度を確立したあとに製作所を建設し、雇用を創出し、その後に四輪進出といったかたちで広げていったのです。

その際にも、やはりスーパーカブが大きな役割を果たしてきました。そのようにして増えていった生産拠点は、2018年時点で日本、アジア、南米、アフリカにあり、世界中でスーパーカブシリーズが生産されています。なかでもベトナム、タイが多く、アジアの割合は非常に高くなっています。

 

■ 本田宗一郎の言葉「コストは気にするな」

スーパーカブが世の中に広く認知されたのは、1950年代から70年代にかけて「働くスーパーカブ」として設計されてきたことにあります。1971年には新聞協会からの要請で新聞配達用のスーパーカブを作り、現在も活躍しています。さらに日本郵政との共同で郵便配達用のバイクも作り、現在は電動化するなどして8万台のカブが使われています。

「働くバイク」の需要は堅調でしたが、1993年には新たな展開が生まれます。ホンダアクセスというホンダの子会社が新たなカブを発売すると、高校生や大学生の中にも愛好者が生まれました。1997年には14インチタイヤを履いたリトルカブが出され、このころからビジネスよりも「ホビー」という新しい流れが出てきました。

振り返ると、リーマンショックなど試練の時を含め、さまざまな時代を乗り越えてきたスーパーカブ・ロングセラーの秘密は、とにかく良いものをきちんと作っていこうという社風にあると思います。本田宗一郎は常々「コストは気にするな。コストは大量生産が取り返してくれる」と言っていました。

新聞や郵便などの配達業務用の専用車を開発し、安定的なビジネスを確立していくことで、ホンダは「社会の役に立つ企業」として認知されてきました。お客さまの役に立ち、生活を豊かに楽しく生きる、お求めやすい商品の提供を継続していく。伝統を守るだけではなく、そこに先進性があることこそが、スーパーカブのロングセラーの秘密だと思います。

今最も売れているハンターカブCT125

 

■ ファンイベントを続ける理由

ブランドイメージは一朝一夕に向上できるものではありません。バイクには危険な乗り物というイメージもあります。この負のイメージはなかなか消せないのですが、だからこそ、文化領域での活動が重要だというのが私の持論です。
 
1997年からは、スーパーカブのファンの方々が集まって交流するイベントを企画してきました。いろいろな文化的イベントをかたちにしていくことで、スーパーカブは実際のユーザー以外のファン層も拡大させてきました。

先日、青山の本社でスーパーカブのイベントを行い、トークショーや全国のファンの交流を行ったのですが、同様のイベントを全国各地で開催しています。参加者は年々増え、5、6人の小さな行事から100人以上が集まる大きなものまで含めると、年間200回ほど関連イベントが行われています。

年間販売台数はかつてのような伸びはありませんが、こうしたイベントが全国的に広がったことから、レジャーに特化した「クロスカブ」を発売しました。この評判がよく、より本格的な仕様の「ハンターカブ」も売り出しました。ユーザーイベントの活況がこうしたレジャー系のバイク開発のきっかけとなり、レジャー系バイク全体に占める割合も大きく伸びています。

ユーザーイベントの様子

 

■ 本田宗一郎こそが「最高の宣伝マン」

一つ、本田宗一郎のエピソードを紹介します。
私が入社した前年に本田さんは社長を退任されました。私が青山のショールームの担当だったころ、本田さんは一人でショールームを回っておられました。

F1のある大会でホンダがチャンピオンになったとき、ショールームにF1カーをパーテーションで囲った上で展示しました。そこにお見えになった本田さんは「お客さまに喜んでもらっているのかい」と言われました。

直後にスタッフで話し合い、F1カーにお客さまが乗れるようにしようということになり、実際にそのようにして写真撮影できるようにもしました。それまで触れる事さえできなかったF1ですが、本田さんの一声で大きく変わったのです。

また、私はいつもマジックペンを持っていました。あるとき、来場されたお客さまから「息子の名前がソウイチロウと言います。できればサインをもらいたいんですが」と言われたので本田さんにお願いすると「おれは字が下手だからな」と言いながらも、お客さまのヘルメットにご自身の名前を漢字でサインなさっていました。

スポーツ選手でもない一企業の創業者がお客さまのヘルメットにサインをするなんて、考えてみれば少しおかしなことなのですが、私は上司から「お前はペンを渡す役になれ」と言われ、以来常にペンを携えていました。つまるところ、本田宗一郎こそが、ホンダの最高の宣伝マンであり広報マンスタッフだったのだろうと私は考えています。

(文/安藤智郎)

高山 正之氏
(元本田技研工業株式会社 ブランド・コミュニケーション本部広報部 二輪広報課主任)
1974年本田技研工業入社、狭山工場勤務。78年モーターレクリエーション推進本部に配属され、83年に日本初のスタジアムトライアルを企画運営。86年本田総合建物でウェルカムプラザ青山の企画担当となり、鈴鹿8耐衛星中継などを実施。94年本田技研工業国内二輪営業部・広報で二輪メディアの対応に就き、2001年ホンダモーターサイクルジャパン広報を経て、05年より再び本田技研工業広報部へ。1994年から2020年の退職まで二輪車の広報活動に従事した。

元本田技研工業株式会社

ブランド・コミュニケーション本部広報部 二輪広報課主任

高山 正之氏