産創館トピックス/講演録

《講演録》セレッソ大阪『モリシ社長の挑戦』大阪のシンボルをめざして

2023.01.16

2022年11月9日(水)開催
【トークライブ!】
《講演録》セレッソ大阪『モリシ社長の挑戦』大阪のシンボルをめざして
森島 寛晃氏(株式会社セレッソ大阪 代表取締役社長)

現役時代は「モリシ」の愛称で活躍し、多くのファンに愛されてきた元サッカー日本代表・森島 寛晃氏。現在は、プロ生活の18年を過ごした古巣・セレッソ大阪の代表取締役社長を務めている。プロアスリートから経営者へと転身した現在、セレッソ大阪というクラブ運営の舵取りを担うサッカー界の「レジェンド」に、経営者として現在見つめているものについて詳しく語ってもらった。

 
トップアスリートから経営者へ

現在私が代表を務めさせていただいているセレッソ大阪の前身は、ヤンマーディーゼルサッカー部でした。1965年から日本サッカーリーグに参加し、釜本邦茂氏をはじめ数々の名選手が所属したチームであり、リーグ優勝4回、天皇杯3回など、当時の日本サッカーを牽引したチームです。私自身も高校卒業後にヤンマーディーゼルに入社し、社会人として、さらにその後プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる原点となりました。

Jリーグは1993年に開幕しました。セレッソ大阪が加入したのはその2年後のことです。当初は大阪市のみでしたが、現在は堺市も含めた両市をホームタウンとしています。私はこのセレッソで2008年まで「セレッソ一筋」でプレーさせていただき、引退のときにはファンの皆さんに「次は監督としてこのピッチに戻ってきます」と語ったほどでした。その後、セレッソのアンバサダーという立場でセカンドキャリアをスタートさせました。

2016年からチーム統括部という部門でチームづくりにも携わらせてもらう中で、前任の社長が退かれる際、「森島にやらせてみたらどうか」という話が出たそうです。私自身、びっくりするようなオファーだったので、初めはお断りしました。いろいろな先輩方に相談もしましたが、「そんなに簡単なものじゃない」という話がほとんどでした。

ただ、その後も話し合いを重ねる中で、選手時代から感じていた「セレッソをもっと良いクラブにしたい」という思い、Jリーグの数あるチームの中でも「一番魅力のあるチーム」にしたいという思いを、自分一人だけではなくクラブの皆で共有できるのであればと、チャレンジする決断をし、2018年に就任しました。

 
コロナ禍での大きな収穫

私にとって経営者1年目となる2019年シーズンは、非常に順調なシーズンでした。観客動員数は過去2番目の多さとなり、チームの成績も評価できるものでした。ところが翌2020年のスタート直後から新型コロナウイルス感染症によってJリーグの活動全体が止まります。それから約5ヶ月間、チームとしての活動ができず、その後再開してもなかなかサポーターの皆さんにお越しいただける状況ではありませんでした。

セレッソにとって、ガンバ大阪とのいわゆる「大阪ダービー」は注目マッチであり、サポーターに最も足を運んでもらえる一戦です。ヤンマースタジアム長居であれば来場者4万人を超える大阪ダービーが、コロナ禍で無観客とせざるを得なかったことは、経営の面からいっても非常に大きなマイナスでした。チケット売上が通常時の半分以下になることが続き、選手やサポーターだけではなく、経営的にも苦しいシーズンでした。

けれどもそうした中で、「何かできることがあるんじゃないか」という声が社員の中から出てきたのです。そうして始まったのが「なんかせなあかん!」プロジェクト。具体的には、無観客試合時のスタジアムの観客席にTシャツなどを配置することでサポーターの声を届ける機会としつつ、そのためのクラウドファンディングを行ったり、応援歌を歌う様子を動画で送ってもらうなど、リモートで応援できる環境をつくりました。

経営としては厳しい状況が続いていましたが、このプロジェクトを通じて私が感じたのは、クラブのスタッフみんなが本当に一丸となっているということでした。サポーターから支援していただいたTシャツを観客席に一枚ずつ配置していく、そういった作業を社員全員で進めていく中で、それまでなかったような一体感を感じることができたのは、大きな収穫でもあったと感じます。

 
セレッソが抱えていた組織内の「距離感」

社長として私が最も大切にしていることは、至ってシンプルですが「常に明るく元気よく」ということです。大変な状況や環境の中でも、リーダーが明るく振る舞っていれば、チームや組織の雰囲気は明るく保つことができる。雰囲気が明るければ、アイデアが出てくる。それは選手時代の体験に基づいたことでもあります。技術も重要ですが、まずはポジティブな空気づくりというのがリーダーには求められるはずだと考えています。

他チームと同様、セレッソにも発足当時からグループ全体で掲げてきた理念があります。けれども本当に社員全員が理解して、そこに向かって進んできたかというと、やはり疑問を感じる部分もありました。たとえばセレッソは、トップチームの運営に当たる株式会社セレッソ大阪と、アカデミーや施設管理などを担う一般社団法人セレッソ大阪スポーツクラブという組織から成ります。この二つの組織の間で、「トップチームはトップチーム、アカデミーはアカデミー」というような距離感があるように感じていたんです。

その「距離感」を払拭すべく、私はセレッソが掲げる企業理念、ミッションをクラブとして見直し、つくり直しました。セレッソがどのようなビジョンを掲げているのか、セレッソは何を大事にしていくのかということです。それを社員一人ひとり、あるいはセレッソのアカデミーで育ちつつある若手選手たちまで共有し、しっかりと認識し、行動に表していくことで、「大阪といえばセレッソ」と言ってもらえるようになっていくのではないか。そしてそこから、本当に魅力あるクラブづくりができるのではないか。最高にワクワクするスポーツの姿を、日本だけではなく世界の人にも知ってもらえるのではないかと考えています。

 
育成型のチームづくりこそ

アカデミーについて触れましたが、セレッソの特徴は、アカデミーから選手を発掘して育て、彼らを中心にしてチームをつくり、タイトルを獲りにいくところにあると思っています。

セレッソには「ハナサカクラブ」という育成サポートクラブがあります。ユース、ジュニアユース、ジュニア、レディースといった育成組織のサポートを目的にした個人協賛の会です。どのクラブでも同じだと思いますが、トップチームの成績が落ちたり、チームの収益が下がったりした時に、こうした育成組織へのお金というのは削られてしまいがちです。

私自身、高校3年生の時に南米遠征をさせてもらい、そこで見た自分と同世代の選手たちが目をギラギラさせている様子、勝負にとことんこだわる姿勢を目の当たりにして、自らのプレーを見直す大きなきっかけを得ました。こうした経験を継続的に、安定した環境でアカデミーの選手たちに経験させてあげたい。そのために個人や企業からのご支援をいただいて、みんなで協力してつくりあげていくというのが「ハナサカクラブ」の目的です。

この1期生である元日本代表・山口 蛍選手はセレッソの中心的存在としてプレーしてくれましたし、柿谷 曜一朗選手やワールドカップ・カタール大会の日本代表メンバーに選出された南野 拓実選手もセレッソのユースで育った選手です。高校3年生でセレッソに来て、2006年シーズンからプレーした香川 真司選手を含め、彼らのようにセレッソから世界へとステップアップしていく姿こそ、チームの若手を鼓舞する最も大きな材料になります。セレッソの特徴である育成型のチームづくりを、今後もさまざまな取り組みを通して継続していきたいと考えています。

 
セレッソが大阪のシンボルになる日

もちろん、私は監督ではなくクラブの社長という立場なので、現場のチームづくりには入っていくべきではないと考えています。ただ、チームについて本音で語り合える環境づくりはどんどん進めていきたいと思っています。本音のコミュニケーションをする中で、自分もチームについて思ったことは率直に伝える。そのうえで、あとは監督やチーム統括部長に任せて、最終的な責任は私が取るというかたちが、おそらく監督も含めて選手たちが最もやりやすいのではないかと思います。

観客で埋まったスタジアムにはやはり何ものにも代えがたい臨場感と興奮があります。コロナ禍はまだ収束しておらず、満員のスタジアムをつくるという状況までは戻せていませんが、本当に魅力あるチームにするには、サポーターの皆さんに何度も足を運んでもらう必要があると思っています。私はパートナー企業の皆さまはもちろん、セレッソに関わる全ての人を「セレッソファミリー」と呼んでいます。セレッソファミリーが同じ方向を向くことによって、良い戦い方ができる。良い戦い方を続けることによってセレッソが大阪のシンボルとなれるように、取り組んでいきたいと考えています。

(文/安藤智郎)

 
森島 寛晃氏(株式会社セレッソ大阪 代表取締役社長)
1972年生まれ。1991年、静岡・東海大一高校(現・東海大静岡翔洋高校)からヤンマー(現・セレッソ大阪)入り。1998年フランス、2002年日韓とワールドカップ2大会出場。2008年引退。セレッソ大阪のアンバサダー、チーム統括部を経て、2018年12月より現職。広島県出身。

株式会社セレッソ大阪

代表取締役社長

森島 寛晃氏

https://www.cerezo.jp/