ドライバーの価値を高めていきたいんです
大阪産業創造館 プランナー 志岐 遼介による連載 【ロジは一日にして成らず】
運送事業者の実に9割が中小企業と言われ、デフレ時代の厳しいコスト要求や原油価格の高騰に伴う経費の上昇など厳しい時代が続く物流業界。大阪産業創造館では、そんな厳しい時代を戦う運送事業者、それに携わる事業者を応援しています。
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vol.11 矢倉運輸倉庫株式会社~ドライバーの価値を高めていきたいんです~
大阪府東大阪市に本社を構える矢倉運輸倉庫株式会社。中継輸送、倉庫保管を主力事業として昨年創業45年を迎えた。ドライバーという職業が見直されるために奔走する代表の矢倉氏に話を聞いた。
折しも取材の数日前、西日本を記録的な豪雨が襲った。インフラが被害を受け、物流網にも大きな影響が発生。矢倉運輸倉庫の事務所も絶えず電話が鳴り響く。荷物を積み込んで発車したものの豪雨の影響で荷卸しすることができなくなった企業や運送会社からのSOSである。
自ら受話器を握り対応にあたった矢倉氏は「みんなが困っているとき、他社がやれないことをウチでは積極的にやっています。今回も荷卸しできずに困っているトラックの荷物をウチで一時的に保管するなど、自分たちができる最大限のことをやっています」と語る。
過去にも阪神大震災、東日本大震災など、災害のたびに運送業として物資を現地に配達してきた。ガソリンを片道分しか給油することができなかった東日本大震災では、北海道から東京まで放射能が含まれているかもしれない水道水では赤ちゃんにミルクを作れないという不安から求められた飲料水の配送依頼があった。
他社であれば燃料不足を理由に断る案件も、横浜まで船便を使って輸送する提案を行うなど、あらゆる経験とノウハウを駆使して顧客の要望に応えてきた。
「普段は失礼な態度を取られることもあるトラックドライバーも、この時ばかりはヒーローのように歓迎されます。心からありがとうと感謝を伝えられることで、ドライバーも仕事にやりがいが生まれて、私たちも喜んでいます」。
矢倉氏のドライバーへの思い入れは人一倍強い。最近では物流業界全体で問題視されている「待機」についても、早くから問題意識を持って、国土交通省やトラック協会へ改善を訴え続けた。
「とある家電量販店の物流センターへ配送する時のことです。大手の電機メーカー数社はAランクと区分けされていて、そのメーカーの商品を積んでいるトラックは優先的に荷卸しをさせてもらえるんです。その他の家電メーカーの商品を積んでいたら、どんなに早く物流センターに到着してもAランクのトラックの荷卸しが終わってからでなければ降ろせません。繁忙期などは前日夜中に物流センターに到着して待っていても、その日の夜にならないと荷卸しできない。ドライバーは丸一日、物流センターで待機です。受け側と卸し側がしっかり調整すればこんなことは防げるのに改善がされないので、現場の声として訴え続けてきました」。
矢倉氏ら現場の声の訴えは少しずつ届き、昨年から国土交通省は待機時間について運送事業者と荷主が協力して改善していくための動きを開始した。「私たち末端の企業の声を、時間が掛かってもトラック協会や国土交通省が受け止めて動いてくれたことには本当に感謝しています」と矢倉氏は振り返る。
父が創業した矢倉運輸倉庫。創業時から旧松下グループの仕事を多く手がけていた。1978年に中国から鄧小平氏が来日し、松下電器の工場を見学した。松下幸之助氏は中国へ帰国する鄧氏へ、お土産という名目でトラック満載の家電製品をプレゼントしたという。
門真市の松下電器の工場から大阪国際空港までそのトラックを運送したのは、他ならぬ矢倉運輸倉庫であった。父の自慢話として子どもの頃から聞いていた矢倉氏であるが、会社の後継ぎは既定路線ではなかった。
「母親から、お父さんの会社は継いだらアカン。あんなしんどい仕事はしてほしくない」と言われていたという経緯もあり、商業簿記を学んで不動産会社へ就職した。将来のために簿記を生かせる仕事を希望していたが、入社2年を経過しても希望の職種に就けそうにないことを感じて退職。
新しい仕事先を見つけようと迎えた朝、人生の転機となる。「母親が、お父さんの会社が忙しそうだから少し手伝ってあげてと。少しだけのつもりで会社に行ったんですけどね」。
中学生、高校生の頃から会社で手伝いをしていたこともあり、ドライバーや事務員は顔なじみ。やるならとことんやりたい性格もプラスに働き、倉庫の仕分け、管理、配送までフル回転で働いた。そんなタイミングで大手鉄鋼建設機械工場の納品管理の仕事が舞い込み、矢倉氏は常駐の現場責任者としてリーダーシップを発揮し、社内で表彰される程の活躍であった。
「当時の部長クラスの方には、言いにくいことをストレートに言ってくれてありがとうという感じで評価をしてもらいました。一方で課長、係長クラスは言いたいことを言われて面白くなかったでしょうね。その後、その商社さんとの取引はなくなってしまいました。今思えば、相手の立場を考えた仕事ができていなかったのかな?と、良い経験になりました」。
会社は軌道に乗り、倉庫業務の割合が大きくなったことから、1988年に矢倉物流サービスを設立。代表取締役に就任する。経理の仕事をするはずが、気が付けば物流企業の社長になっていた。
今から6年ほど前に矢倉運輸倉庫の代表取締役社長に就任。現在では中継輸送や倉庫保管以外にも、ダイキン工業の空調機の配送の仕事も多く請け負っている。長年にわたる取引から生まれた信頼関係の賜物だ。
そして現在、注力しているのはドライバーの価値の向上だ。「ドライバーという仕事を魅力ある仕事にしなければ、なり手が生まれない。ドライバーが不在になって黒字倒産する運送会社も珍しくないのです」。
現状を改革するためには、運送業だけではなく荷主企業も含めて物流に携わる多くの関係者にドライバーという仕事を見直してほしいと感じている。
社長自らが制作する会社のWEBサイトも、若い人材にドライバーに興味関心を持ってほしいという気持ちでコンテンツを作り込んでいる。「価格だけで評価される仕事は減ってきました。ドライバーの資質を向上させて、お客様に満足していただける仕事をも継続していきます」。
決めたことはとことんやりぬく矢倉氏がハンドルを握る矢倉運輸倉庫、ドライバーの価値向上という走路を迷うことなく、これからも走り続ける。
(取材・文/大阪産業創造館 ものづくり支援チーム プランナー 志岐 遼介)