【ロングインタビュー】母親の会社をベースに、新発想の塗料で世界に挑む
米国に留学し、金融機関、IT会社を経て、母の製造する塗料の販売会社をタイで立ち上げた軌道に乗せた高尾氏。その後迷いながらも事業を続け、ようやくこの仕事に懸けようと腹をくくったのは1年前のことだ。現在は、大阪から世界市場に向け光触媒塗料を発信しようとしている。
―どのような塗料ですか?
遮熱塗料に光触媒を混ぜ合わせた多機能性塗料を販売しています。中身が真空のバルーンが層を成しているので熱を通さず、建物の屋根などに塗ると室内の温度が保たれ、冷暖房の費用が抑えられます。光触媒を入れることで、汚れを防ぎ、臭いを取り除く働きも持っています。たとえば、ビンの中に正露丸とこの素材を合わせて入れるとほとんど臭いが消えてしまうんです。
病院や介護施設を始め屋内の内装塗料としても市場が期待できます。業務用だけでなく一般向けのパッケージもつくっていて、これはホームセンターなどで販売しています。製造は母が社長を務める塗料メーカーにこの素材を委託しています。
―お母様も経営者なのですね。
もともと父は2代目として堺で自転車部品を製造する鉄工所を経営していました。ところが私が中学生のときに倒産してしまったんです。それまで大きな屋敷に住んでいたのに、小さな家に引っ越さなければならなくなったり・・・いろいろドラマがありました。その後父がすぐに脳溢血で倒れ、それまで父の周りに集まっていた人がさっと離れていくのも目の当たりにしました。
母は、路頭に迷うわけにはいかないと、自転車部品に塗る塗料を製造する会社を1人で立ち上げました。母は私と違って、でしゃばらない控えめなタイプで、我慢することが当たり前という人です。そういう母がいきなり経営者にならざるを得なかったわけですから、その苦労は痛いほど伝わってきました。
その後、私は高校からアメリカに留学しました。結局2年前にタイから日本に戻るまで25年大阪を離れることになります。
―その後はどんな人生を。
高校卒業後、大学に進学して、インターンで現地の金融機関で働きました。アメリカで9年過ごした後にいったん帰国して、東京のIT関連会社に就職しました。外資系企業向けの営業を担当して、成績もよかったんです。東京の生活も満喫してました。
働いて5年経ったころ、事業を再開した父から「タイで中古機械を売るので手伝ってほしい」と頼まれて。最初は気が乗らなかったのですが、会社も「有給で休んでいいからまた戻ってこい」とまで言ってくれて。それなら、と1年間休職して行くことにしました。
はじめはなかなか話が通じないし、オフィスといっても工場地帯の中で、もうど田舎なんです。タイ人の働くスタイルやタイの環境が我慢できず、オフィスで泣き叫んで「こんなところで働いてられるか」とかいいながら、外に出てって思いっきり走ったこともあります。ドラマみたいでしょ(笑)。
父と商売でかかわったのも初めてでしたしね。父は商売っ気のない人で、何で私がここまでしないといけないのか、という葛藤もありました。そのころ、母はある会社から遮熱性塗料をつくってほしいという依頼を受けてOEMでつくり始めていました。
―1年で復職する予定はどうなったのですか。
当時のパートナーと出会って状況が変わったんです。日本人とオランダ人のハーフで、ウインドサーフィンでタイに遊びに来てたところを知り合って。アメリカで日系工作機械メーカーの現地子会社の社長をしてた人ですが、アントレプレナー精神が溢れている人でアメリカから移住してきて一緒に仕事をしようということになりました。彼が目をつけたのが遮熱性塗料です。気温の高いタイなら遮熱性塗料が必ず売れる、と。彼はその後、堺にある母の工場に一人で訪ねて。頭はいい人だったから一週間くらいでぜんぶ学んで帰ってきましたね。
それから本腰を入れてタイで売り出したらホンダから現地の工場の屋根に使いたい、ということで売れたんです。当時は現地で遮熱性塗料を扱っている会社がほとんどなかったので、日本で売るよりは簡単だったのかもしれません。
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