【ロングインタビュー】母親の会社をベースに、新発想の塗料で世界に挑む
―どのように商売を広げていったのですか。
販売だけでなく施工も始めました。実は施工は一番利益の出るところなんです。オフィス周辺の町の現場をのぞいては「うちで働かない?」と声をかけて引き抜きました(笑)。それで雇い入れた職人を、私が運転する1トントラックの荷台に何人も積んで現場に連れて行って塗装するわけです。女の子がトラックを運転しているだけでびっくりされるから話題になりました。
でもタイの田舎になると道路事情も悪いし、大変なんです。ある日、某大手メーカーの部長とのアポに向かってたんですが、牛がトラックの行く手を阻んでしまって。牛をどかさないことには時間に間に合わないので、私も車を降りて牛を押しました。靴が泥まみれになって「ああ私のグッチの靴が~。」って泣けてきました(笑)。
でも商売が順調に行って従業員に任せられるようになったら、もう私のやることはないなってなって。そのころ、職人がお客さんの工場の壁にいい加減に塗ったところがすぐに汚れてムラになることがわかって悩んでいたところに、それなら汚れを防ぐ光触媒を使ったら、と教えてくれた人いました。それで遮熱性塗料に光触媒を混ぜたらどうかと堺の母に話をしたら、その話がたまたま堺市とつながって母の塗料会社と大阪府大と共同開発することになったんです。それが5年前のことです。
―それが大阪に戻るきっかけになったのですか。
新開発した塗料で世界、とくに環境の意識が進んでいるヨーロッパに進出したいと考えるようになりました。それなら日本からブランディングを発信したほうがいいだろうと考え、帰国することにしました。帰国してしばらくは大阪府大との共同開発を進めながら、堺と東京と行き来したりしていました。実はそのころ、以前からいつかやりたいと思っていたファッション関係の仕事も東京でチャレンジしたのですが、業界の内情が見えて8カ月で見切りをつけました。
結婚のことも考えたこともあります。でも結婚も育児も私のタイプじゃない。あ、結婚や育児を仕事のために犠牲にしたわけじゃないんです。私らしさを考えたら身軽でいたい。東京もヨーロッパも中近東もすぐ行っちゃいますから。でも「この仕事でやっていこう」と腹くくれたのは1年前のことです。これまでいろいろな仕事を経験してきて、やりたいことはやって、思い残すことはないしね。こうしていろいろ経た40歳くらいにならないと人生の方向性なんて決められない気もします。今までやってきたことのすべてに意味があったと思っています。
―今後の目標は。
塗料の世界は巨大な市場。私が今まで出会ったことのないような保守的な人がたくさんいる業界です。ただ、私のような異端の視点があればもっと面白いことができそうな気がしています。私が今からやりたいのはブランディング、しかも世界の市場で勝負したいと考えています。ついこの間もドイツの市場調査に行ってきんですが、環境に対する意識が進んでいるドイツを拠点にヨーロッパ市場で販売していきたいと思っています。
母は71歳になった今もバリバリ仕事をしています。私が結婚もせず、腹をくくってるのもわかっているので、黙って見守ってくれています。私の一番の理解者ですし、母がいなければここまでくることはできませんでした。今でも、母親が自慢できる娘でありたい、というのがわたしの原動力になっています。
(取材・文/山口裕史 写真/掛川雅也)
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