継ぎたい思いをまっすぐに実現させた「しあわせな承継」
小学4年生の時には「祖父から父が受け継いだ事業を私も継ぎたい」という自覚が芽生えていたという福原氏。「父が気さくで面白い人だったので一緒に仕事ができたら楽しいだろうなという思いもあった」という。幼い頃から自分の主張を通す性格で、「他人に強い性格だと思われても、何の得もない」と母に諭されたのも将来承継するであろう娘を慮ってのことだった。「社長になるための社会性の教育は小さい頃に叩き込まれていました。あとはその通り歩んでいこうと思うだけでした」。
京都大学工学部機械工学科に進んだのも家業の力になりたいと考えてのこと。「もともと国語と社会が好きな文系人間だったのですが、理系の勉強を頑張りました」。卒業後、自動車部品メーカーの研究開発部を経て、28歳の時に家業に戻った。
南海モルディは金型用の材料を切断して卸す事業で創業し、先代である父が自動車メーカーと直接取引できるメーカーになりたいという夢を描き、金型製造に乗り出した。現在は自動車メーカーの工場の近くに生産拠点を構え、金型を供給している。福原氏が入社後、父からまず求められたのが、肉盛り溶接を自動化するロボットを開発することだった。肉盛り溶接とは、金型の表面を目的に応じた高合金で覆い、耐熱性、耐摩耗性を加える加工のこと。
熟練の技術がいる肉盛り溶接を自動化するだけでなく、必要なところだけに高合金を使い、コスト低減も狙った。福原氏自身は、事業全体を把握するために営業職にも就きたかったが「ロボットの開発が思いのほか奥が深く、専念せざるを得なかった」と語る。検証を重ねるため工場にテントを張って幾晩も泊まり込んだ。そして、8年がかりで外販できるレベルのロボットを完成させた。
福原氏が30歳になった頃には、父から「70歳になったら引退する」と聞かされていた。猶予は10年弱。労働時間を柔軟に変えられるフレックス制や、頑張っている人に報いる人事評価制度など取り入れたいことはたくさんあった。「代替わりしてから急に私のやり方を押し付けたらハレーションが起こるので、父に相談しながら私の考えていることを少しずつ進めていくことができました」と承継時期が明確だったゆえのメリットを説く。
「社員全員が平等に幸せに働けるように」という企業理念にこだわってきた父と、それより少し現実よりな自身との考え方の違いはあったが、少しずつゆっくり進めることで良好な関係性を保った。「同族企業にありがちな肉親同士のいさかいは絶対に避けようと父から言われたのですが、私も同じ思いだったので、そこは大切にしていました」。
「楽しみにしていた」という事業承継は予定通り2022年9月に実現した。だが、実際にトップに立つと、目に見えない重責がのしかかった。「いざ社長になると投資の判断も慎重になり、社員たちが成長するか否かも自分次第であることを改めて思い知らされました」。2年目からは社員により干渉することを心掛けるようになった。「自分の思いはしっかり話さないと伝わらないことがわかったのと、私の考えを率直に話し、どう思うか聞くことで社員たちも意気に感じてくれてモチベーションも上がっているように思います」。
幼少の頃からの思いをかたちにし「幸せな承継」だったと言い切る福原氏が、南海モルディという会社をどのような色に染めていくのか、楽しみは尽きない。
(取材・文/山口裕史 写真/福永浩二)
Motivation Graph〜事業承継で最も困難だった3つのできごと〜
■2014(28歳)
困難を極めた肉盛り自動溶接ロボットの開発
入社後に任された肉盛り自動溶接ロボットの開発では「思いのほか奥の深い技術」の自動化に悪戦苦闘し、何度も失敗を繰り返した。商品化までこぎつけた時には開発着手から8年が経っていた。
■2021(35歳)
「人生を全部無駄にしたくない」という思い
ロボット開発が困難を極めた時など「苦しい」という思うこともあったが、苦境に直面したときでも「ここで諦めたらこれまで歩んできた人生が全部無駄になる」とはねのけた。
■2023(37歳)
トップに立って初めてわかった社長の重責
社長になって初めて投資や社員に対して責任を負うことの大変さを知った。父から社長としての正式な教育は受けなかったが、共に仕事をし自ら体感する中で醸成される感覚を大切にしている。