従業員の能力値を高め、会社をさらなる成長ステージへ
常磐精工株式会社は、店の前などに置かれるスタンド看板でトップクラスのシェアを持つメーカーだ。もともと金属の切削加工業として事業を始めたが仕事量が減ったため、2代目である喜井氏の父が「脱下請け」をめざし、見出したのが看板製造業の道だった。アイデアマンの先代は次々にアルミ枠の加工技術を活かしたスタンド看板を開発し、事業を拡大していった。
自社商品の販売により利益率は大幅に改善したが、部品の調達や在庫管理は甘くなっていた。「会社に生産管理システムを導入したいので力になってくれないか」。父からそう言われたのは、喜井氏が社会人2年目の時のことだった。幼い頃から工場に出入りすることが多く、「僕が継がないと、この会社は残らないんだろうな」と思っていた喜井氏だったが、実際にはかなり迷いつつ受け入れたという。
企画営業部長として生産管理や採用など、幅広く工場の実態に触れた喜井氏は、当時の工場長が仕入れと在庫管理を一人で担当していることを知った。生産管理システムの導入を図ることは、そのまま「工場長の既得権益をはがすことだった」という。半年ほどすると工場長は会社を去っていった。さらなるミッションは新たな取引先を開拓することだった。取引先の大半を占めていたアミューズメント業界の成長が頭打ちになっていたからだ。EC販売に取り組むとともに、積極的に展示会に出て代理店を増やしていった。特にEC販売は「現場で施工が必要な商品でないため相性がよかった」という。
仕事量は着実に増えていったが、現場の人材が足りていなかった。工場長の退職以来、芋づる式に現場の社員が辞め、その補充ができていなかったのだ。コロナ禍に直面すると、スタンド看板の引き合いがぱたりとやんだ。だが、いち早く飛沫防止用のパーティションを商品化すると、これが当たった。大手飲食チェーンの全店に採用されるなど、2年間は目まぐるしく仕事に追われる日々が続いた。
事業承継に向き合う余裕ができたのは2022年頃。「もともと父は60歳で引退すると明言しており、コロナ禍がなければ交代していたはずでしたが、結果的に3年ほど延びました」。承継を見据えさまざまなことを一気に進めた。工場の建て替えに当たってはオープンファクトリー化することを決めた。さらに、職業訓練学校に出向きしっかり思いを伝えて採用を行うことで社員の定着率が上がった。
並行して喜井氏は、後継者が参加するピッチイベントに積極的に参加し、多くの後継者の思いに触れるうちにあることに気づく。「後継者として何をしたいかを考えた時、多くは家業のリソースを自分のやりたいことに寄せるウォントの気持ちが強いのに対し、自分は従業員を守るというマストの気持ちにとらわれすぎていた」と。
そして、新たにBtoCの商品を出したいという思いが芽生えた。しかも先代の時のように自分がやるのではなく、社員に任せればモチベーションが上がると考えた。そうして2024年1月にできたのが製品開発プラットフォームだ。喜井氏が提示したテーマに沿った社員のアイデアをもとに外部と共創して商品化する仕組みで、これまでに懸垂マシンやアウトドアテーブルを商品化した。
7月に社長に就任したばかりの喜井氏は「自分の能力値には限界がある。従業員の能力値がそのまま会社の能力値になるようにして人と会社を成長させていきたい」と先を見据えている。
(取材・文/山口裕史 写真/福永浩二)
Motivation Graph〜事業承継で最も困難だった3つのできごと〜
■2015(24歳)
生産管理システムの導入の功罪
入社後に手がけた生産管理システムの導入は、工場長の仕事を奪うことになった。工場長は半年後に退職し、芋づる式に現場の社員も辞めていった。その後しばらくは、採用しても社員が定着しない時期が続いた。
■2022(31歳)
先代との衝突もそれが良い壁打ちに
先代の父親とは度々意見がぶつかった。「デザインや形のないものへの投資についてはことごとく反対され、どう説得するか苦労した」。ただその過程を通じてなぜ自分がそれをやるのか考えを深める機会になった。
■2023(32歳)
ピッチイベントでウォントの大切さに気付く
事業承継候補者が参加するピッチイベントに参加し、優勝する人たちの共通点を探ったところ「家業のリソースを活かしながら自分のやりたいことを成し遂げる、そのパッションが足りなかった」ことに気づいた。