家業最優先の呪縛から解放、社員とともに見据える未来
「事業に失敗したら家族みんなでホームレスになる覚悟を持ってくれ。守るべきは従業員であり、家業というものはそういうものだ」。父親からそう告げられたのは筏氏が8歳の時のこと。「筏家はリボン食品とともにある」ことを幼少期から刷り込まれた。とはいえ2人姉妹だったこともあり、「姉の結婚相手が継ぐのだろう」と思い込み、米国の大学を卒業した後はそのまま現地のホテルに就職した。
そんな矢先、父親が倒れたとの知らせを受ける。刷り込みとはおそろしいもので、父や母のことより真っ先に「会社はどうなるんだろう」と不安を覚え家業に戻った。米国仕込みのやり方で会社を変えようと意気込んだが、どこまで行っても社員からは「社長の娘」としか見てもらえなかった。アイデンティティを失ったショックは大きく、両親に相談することなくアメリカに舞い戻った。
やはりアメリカは水が合った。1社目ではトップセールスを記録し、転職した先でも重責を担い、世界を飛び回った。そのまま骨をうずめるつもりでいたが、一時帰国した際、当時のリボン食品の専務から「リボン食品には筏家の血が必要だ」と言われ、気が付けば「はい」と返事をしていた。筏家としての責任感と同時に「他人の会社でも楽しく成果を残せるなら、家業ならもっとできるかもしれない」と思ったと当時の心境を振り返る。
2度目の入社を社員は温かく迎え入れた。1度目と違い、「じっくり社員の声を聞き、変えるべきところがあれば変えよう」と、腰を据えて臨む覚悟が社員にも伝わった。先代も筏氏のためにレールを敷こうとしていた。その一つが主力事業の一つだった冷凍デザートケーキ事業からの撤退だ。先代の発案で市場をゼロから築いたが大手企業の参入で価格競争を強いられていた。「私が継いでからでは父に気遣って撤退しづらいだろうと考えてくれたようです」。その気持ちに発奮してパイ生地事業に注力し、3年で撤退した冷凍デザートケーキ事業分の穴を埋めた。
社長を引き継ぐまでの3年間は権限もゆだねられ取締役会の議長も任された。筏家が一枚岩であることを示すため「私がどんな意見を出すか毎回事前に父とすり合わせた」という。「父は私の意見はすべて尊重してくれ、失敗したとしてもすべて責任を取るとも言ってくれました。感謝しています」。
同じ頃、結婚した。夫には「あなたよりもリボン食品を優先するけれどかまいませんか」と確かめたほどだ。「会社を継ぐということはリボン食品を次の世代につなげること。そのためにも子どもがほしいと考えていました」。待望の子どもが産まれた時には、喜びと同時に「この娘に私と同じ苦労をさせるのはしのびない」と涙が止まらなかった。社長と家庭、気負いと現実のはざまでいつしか追い詰められていた。だが、あるセミナーに通い心の鎧が外れていく。「まずは自分を大切にし、家族を大切にして初めて会社のことを大切にできることにやっと気づくことができました」。憑き物が取れたように気持ちが楽になり、強い情熱を素直に事業に向けられるようになった。
主力のパイ生地事業はコロナ禍で打撃を受けたが、現在は順調に収益を伸ばしている。加えて専務時代に自身がライセンス契約を取り付け日本で店舗展開を図ってきた米国のブラウニー専門店のオーナーから「ユカコに継いでほしい」と言われ、事業を譲受することが決まった。今後は米国で多店舗展開を図る予定だ。
7歳の娘には、リボン食品が大切にし続けてきたことを伝えることで「継ぎたいという気持ちになった時には違和感なく入ってこられるようにしておきたい」。この日一番の柔らかい表情をのぞかせた。
(取材・文/山口裕史 写真/福永浩二)
Motivation Graph〜事業承継で最も困難だった3つのできごと〜
■2007(29歳)
1度目の入社では自信を喪失
1度目の入社時は、米国流の筏氏のコミュニケーションに社員が戸惑い、会社では「まるで宇宙人のような扱いだった」という。加えて何をしても「社長の娘」としか見てもらえず、自信を喪失して米国に逃げ戻った。
■2018(40歳)
とらわれすぎた「家業最優先」への意識
幼少時から植え付けられた「筏家はリボン食品とともにある」の思いに沿って、常に自分よりも家族よりも家業を優先してきた。結婚、出産と社長就任のタイミングが重なり、その葛藤はピークに達する。
■2020(42歳)
コロナ禍の苦境を乗り越えて
パイ事業に注力してから伸びつつあった土産菓子向け市場がコロナ禍で激減した。そこで製菓業界以外に、外食、中食、量販店市場を新規開拓するチームを新設。結果的に取引先が多様化し、リスク分散につながった。