小学生のキムチ作り体験が変えた現場の空気
今でこそ家庭の食卓に当たり前に並ぶようになったキムチ。だが、30年ほど前まではスーパーでも漬物コーナーの片隅に「朝鮮漬」の名前でひっそり置かれているだけだった。「キムチ」として人気に火がついたのは1988年に開催されたソウルオリンピックがきっかけという。
1976年の創業以来、路面店で朝鮮漬を販売してきた同社は問屋経由で小売店で販売するルートを開拓し、スーパーでの存在感を増していくことになる。だがパイが大きくなれば大手資本が参入してくるのが市場の常だ。1990年代後半から大手漬物メーカーとの競争が激化。「大手と同じような商品をつくっていては生き残れない」と、新商品開発に力を入れていくようになった。
商品が増えれば製造現場は覚えることも作業量も増える。「売りやすいものをと望む営業部門と、作りやすいもので済ませたい製造部門とがいつもぶつかっていた」という。極めつけは4年前に父の日に合わせ発売した盛り合わせ商品。スーパーのバイヤーからの提案で「ビールとキムチでお父さんをねぎらおう」と、白菜、大根、スルメのキムチにチャンジャを合わせセット商品で売り出したところ大ヒット。
だが、作っても作っても追いつかず現場は混乱した。「生産が深夜に及び、スーパーの物流センターに届けるのが深夜2時半になったこともあります。現場からも得意先からも怒られ、思い出したくもないくらい」と振り返る。
そこでイベント時は通常の前日発注ではなく、1週間前に見込み発注をしてもらうように改めた。あわせて「消費者が喜ぶ商品づくりをめざす」とのビジョンをつくり、何度も伝えた。出た利益は省力化機械の購入に充て、多忙な時期にも対応できる体制が整いつつある。
昨年秋、近隣の小学校の先生から「工場見学させてほしい」と依頼があった。「どうせならキムチ作り体験をしませんか」と提案したところ喜ばれた。現場に伝えると「また面倒なことを持ち込んで」と反発しながらも、部屋と道具を率先して用意してくれた。
塩漬けされた白菜にキムチ液を塗りこむ作業を嬉々として続ける小学生たち。黄氏1人が対応することになっていたが、いざ始めてみると作業の合間を縫って現場の従業員が1人、2人と作業台や手洗い用のたらいを持って来てくれた。
子どもたちと触れ合うことで、「ふだん顧客と接することのない現場の従業員にとって商品を届ける楽しさを感じるよい機会になりました」と黄氏。当初は1回きりとの約束だったが、「続けてもかまいませんよ、と現場に言ってもらえた」と喜ぶ。
「大阪のスーパーで一番の地位を確立し、いつか東京でも勝負したい」という夢が少しずつ現実のものとなりつつある。
(取材・文/山口裕史)