鰹節問屋一筋 極めた出汁の文化
大阪西区「靱(うつぼ)」は、江戸時代に「靱三商」と言われたコンブ、干鰯、鰹節(かつおぶし)を中心とした塩干物問屋が集積し、大阪市中央卸売市場が開設される昭和初期まで商売が続いた地である。大正末期、靱にある鰹節問屋にでっち奉公したのが、大鰹(だいかつ)株式会社(大阪市港区)の山中政彦社長の祖父・政七で、これが同社の嚆矢(こうし)である。1947年に独立創業し、鰹節問屋一筋で現在に至っている。
鰹節は鹿児島県枕崎や静岡県焼津に代表される全国産地メーカーと、同社のような問屋、そして最終製品にする削り節業者に分業される。問屋不要論は当業界でも避けては通れない課題となる中、当社は創業来の問屋機能を徹底追求し、現在では業界で押しも押されもせぬトップ企業となっている。
ターニングポイントは業界の聖地「靱」を離れ、現在の地に本社を移転した90年にある。「在庫力とスピード」をテーマに2万ケースを保管できる完全自動搬送の冷蔵倉庫を本社に設置し、「(シーズン性のある)生産者と(年中安定供給を望む)消費者をつなぐ“架け橋”」をスローガンに問屋の原点回帰を行ったのだ。鹿児島、静岡をはじめとした160の産地業者から仕入れた商品を、300に及ぶ販売先のニーズに素早く対応して納品できる態勢を構築したのである。
会社を訪れると、こうした積極的な取り組みもあり、古い業界にあっても少数精鋭かつ20代社員が生き生きと働く活気ある職場を目の当たりにする。山中社長は常々、社員に「明るく、楽しく。鰹節屋として、仕事人として、人間として格好よくあろう」と伝えている。その「鰹節屋としての格好よさ」は、鰹節のプロとして得意先のあらゆるニーズに応えるだけでなく、潜在ニーズを掘り起こすための積極的な提案ができる「在庫力とスピード」があるからに他ならない。
同社は近所の子供たちに削りたての鰹節を持って帰ってもらい、本物の鰹節のおいしさを知ってもらう活動も行っている。鰹節を取り扱う限り、日本の食=出汁(だし)=の文化と精神を次世代に継承することも大切な使命なのである。
(大阪産業創造館 経営相談室長 田口光春)
▲鰹節のさまざまなニーズに応える大鰹の山中社長(左から3番目)と社員の皆さん
大鰹株式会社