伝統を礎に新たな展開「あの時の決断があるから今がある」
賭けに出た流通改革新ブランドの商品が大ヒット
1801年に初代中島治郎兵衛が京都で干菓子の製造を始め、6代目の中島次郎兵衛が1912(大正元)年に大阪で創業したのが中島大祥堂の原点だ。「大正元年に創業したことから、中島という名字に年号の大正をあて、〝正〟の字を吉兆を意味する〝祥〟に変えたのが社名の由来です」と9代目の中島慎介氏は説明する。
同氏の祖父で7代目の秀夫氏までは和菓子のみを扱っていたが、父で8代目の孝夫氏が大阪万博の開催を見据え、洋菓子への進出を決断。1968年にドイツとヨーロッパに留学し、洋菓子づくりを学んだ。「当時は海外旅行が珍しい時代。家族総出で父の無事を祈り、見送ったのを覚えています」と当時を懐かしむ。
ヨーロッパでの修業を終えて帰国した8代目が洋菓子の製造をスタートし、大阪万博の翌年の1971年に洋菓子ブランド「Danke」を立ち上げた。同社の企業理念は「感謝の経営」。ブランド名にドイツ語で「ありがとう」を意味する「Danke」を使ったのは、「お客様への感謝の気持ちを大切にしていた父ならでは」と力を込める。
転機は約30年前。1985年に営業政策を大胆に見直して、取引先を総入れ替えしたのだ。当時はスーパーなどに袋菓子を卸していたが、取引条件が厳しく菓子づくりに制約が多かった。「そこで先代が高級路線への転換をめざし、スーパーから専門店へと売場を変更していったのです」。
流通改革と同時に新ブランドも立ち上げた。6代目の中島次郎兵衛が使用していた雅号「聴松庵三笑」を和菓子ブランドとして活用し、葛餅など和の半生菓子を開発。これを専門店で販売したところ、大ヒットしたのだ。取引先を入れ替えた当初は社内で心配する声が挙がった。「しかし葛餅が大ヒットし、売上げも大きく伸ばした。あの時の決断があるからこそいまがある」と先代の経営判断に理解を示す。
創業100周年で立ちあげた中島大祥堂ブランド
歴史のある老舗企業の経営戦略。それは伝統を重んじて守りに入るか、伝統を礎に新たな展開を模索するか、この2つに大別されるだろう。「当社は間違いなく後者。時代に寄り添うように商品展開を変えてきた」ときっぱり。時代が移り変わるにつれて、消費者ニーズも変化する。「お客様に喜んでほしいという気持ちを強く持ち続けていれば、提供する商品が変わっていくのは当然」なのだ。先代は菓子づくりに情熱を傾けていたが、それ以上に顧客に喜んでもらいたいという思いが強かった。「そんな先代でなければ私はこの会社に入っていない」。1993年に入社し、2008年に9代目に就任した同氏はそう言い切る。
その思いは品質管理体制にも表れる。2010年に竣工した本社工場でHACCPの認証を取得するなど、製造拠点の品質管理を徹底しているのだ。創業100周年を迎えた2012年には、社名である「中島大祥堂」ブランドをスタートし、厳選素材を使った和洋菓子の展開を始めた。さらに創業100周年事業の一環で新たな展開も行う。大阪総合デザイン専門学校の学生と共同で、同社丹波工場のある兵庫県丹波市の産品を活かした洋菓子の開発を進めているのだ。300案にものぼる学生のアイデアを絞り込み、商品化を決定したのは丹波大納言を使った商品。社内での試作を50回以上重ね、学生を交えた試食会も経て商品化にこぎつけた。「これまでのように時代に寄り添い続けながら、新たな商品開発に力を入れていきたいですね」。9代目も先を見据えている。
▲五代目「中島次郎兵衛」。
▲六代目の雅号を掘り込んだ看板。
▲学生と共同開発した「さやどら」。
株式会社中島大祥堂
代表取締役
中島 慎介氏
和菓子ブランド「聴松庵三笑」、洋菓子ブランド「Danke」を展開する和洋菓子メーカー。2012年に「中島大祥堂」ブランドも立ち上げ、厳選素材を活かした和洋菓子(「豆果」「木果」「洛果」)を展開。