印刷業の歴史と共に歩んだ100余年 変わらないのは「軸足は本業」
世の中の動きを見極めて必要とされる商品を提供
日本の印刷会社は帳簿の製造から転業したケースが多い。まだパソコンも電卓もない時代、商売の取引を記録する紙の帳簿は企業に必須のアイテムだった。
二口印刷のルーツもそうだ。1904年、初代が胡鶴帳簿を創業。二代目の河村帳簿を経て、現社長の二口氏の祖父にあたる三代目の庄吾氏が1927年に二口帳簿製造所に改称した。「二代目には後継ぎがおらず、優秀な職人だった祖父が河村帳簿を引き継いだと伝え聞いています」。
高度成長の勢いに乗って帳簿の需要が急増するが、印刷技術の進展により、やがて職人による手づくりの帳簿は衰退していく。代わって登場したのが伝票だ。同氏の父で四代目の強平氏がその波を捉え、1968年に印刷業に進出し、活版印刷機を導入。1972年には株式会社二口印刷を設立、主に金融機関の伝票印刷を引き受けるようになった。
「父が法人設立した時期が印刷業隆盛のスタート」と言うように、1970年を境に印刷物の出荷額が急増し、1991年にピークを迎えるまで印刷業界は右肩上がりの成長を続ける。「当社がこれまで存続してきた理由。それは世の中の動きを見極めて、必要とされる商品を提供してきたから」。同氏がそう分析するように、新たな事業に転換することなく、帳簿をつくり続けた専門業者は次第に姿を消していった。
本業の印刷業を軸に新たな試み
そんな二口印刷はふたたび時代に翻弄される。バブル崩壊後に銀行再編が加速し、メインの取引先だった金融機関の受注環境が激変したのだ。取引銀行の合併によって受注を失い、「毎年2割以上のペース」で売上げが落ちていった。加えて会計処理が電子化され、伝票が必要とされなくなっていく。「銀行さんを大事にしていれば食っていける。だから会社を継いでくれ」。そう先代に促されて二口印刷に入った同氏。1982年の入社当時は伝票の最盛期だったが、社長に就任した2001年以降は売上げの減少が続いた。
そこで社長就任と同時に一大決心をする。伝票に見切りをつけ、当時の年商の約半分に相当する額を投じてCTPカラー印刷設備を導入したのだ。そしてチラシやパンフレット、DMなど、同氏が「コミュニケーションツール」と呼ぶ印刷物に特化することになった。
ところが印刷業を取り巻く環境は無残にもまた姿を変える。今度はデジタル技術が進化し、広告宣伝媒体が印刷物から電子媒体に置き換わり始めたのだ。「うちの家業の歴史は、商売の拠り所となる技術が世の中から必要とされなくなっていった歴史です」。そう苦しい胸の内を打ち明けるが、黙っているわけではない。昨年、コミュニケーションツールの主役となりつつあるスマートフォンのHP販売代理店を新たに始めたのだ。
さらに今年の1月、頭部をすっぽりと覆いつくす快眠グッズ「マイドーム®」を発売。「厳しい冷え込みの明け方に近くにあった紙袋をかぶると暖かく、ぐっすり眠れたのが開発のきっかけ」だ。印刷技術は常に移り変わってきたからこそ、人びとの役に立ち続ける商品に「ある種のあこがれがあった」。発売早々、話題となり、いま営業に奔走中だ。
こうした新たな展開を始めるが、「あくまで本業の印刷業に軸足を置く」のは変わらない。自宅の仏間には「和を以て貴しとなす」と書かれた額縁が飾ってある。「祖父も父も『和』を大事にしていた。苦しいときこそ会社、業界の仲間との和を大事にしたい」。そう語る同氏は本業を軸に時代の要請に応え続け、新たな歴史を刻み続ける。
▲現在地に移転した当時の本社。
▲祖父の庄吾氏と活版印刷機。
▲不織布製の頭部カバー。頭部全体を保温保湿できる快眠グッズ「マイドーム®」。
株式会社二口印刷
代表取締役社長
二口 晴一氏
各種SPツールのデザイン制作から販促提案、印刷までトータルに行う。技術者の育成に力を入れ、「現場の技術レベルはピカイチ」と二口社長が自信をみせるように、印刷技術のレベルの高さに定評がある。