戦争で工場焼失、オイルショックで廃業の危機、 リーマンショックで受注激減―。幾多の試練を乗り越えてきた根底にある家訓とは?
家業の中川鉄工の四代目に就任した直後にリーマンショックが起こり、半世紀以上にわたり取引のあった主要顧客2社からの受注を失った。従業員と一致団結して危機を乗り切った根底にあったのは、代々受け継がれてきた家訓。2017年に創業100年を迎える中小町工場の現役社長の言葉から、企業が存続するポイントが見えてきた。
―まず御社の歴史と事業内容をお聞かせください。
1917(大正6)年に私の曾祖父にあたる中川新次郎が中川鉄工所という小さな鍛冶屋を開業したのが始まりです。創業間もない時期はご近所の鍋やヤカンの修理をしてたようですが、やがて造幣局の設備修理や軍需品の製造に従事するようになったんです。その頃、自社開発したねじ切り装置「中川式英米螺旋装置機」で特許を取得し、工作機械の優れた開発を行なったとして大阪市から表彰されています。
その後、大東亜戦争が始まり、中川鉄工所で働いていた新次郎の息子3兄弟が戦争に動員されてしまいました。全員激戦地に送り込まれたので帰還はあきらめていたようですが、戦後、3人の中で一番わんぱく者の祖父が奇跡的に生還。それが創業から数えて二代目にあたる中川楠雄です。大阪空襲で工場は焼け落ち、新次郎は途方に暮れていましたが、「戦後日本の復興を支えるのはものづくりだ」「自分たちがものづくりの底辺を支えなくて誰が支える」との熱い思いを抱き、1946年4月に中川製作所として再出発しました。
事業再開後は新幹線の車両部品やプラント設備の機械加工に事業領域を拡大しました。以後も旋盤加工、マシニング加工ひと筋に「ものづくり立国NIPPON」を支える気概で懸命に事業を続けてきました。2012年にはJIS Q 9100(航空宇宙)の認証を取得し、念願の航空宇宙産業への参入も果たしました。
―これまでの歴史の中で危機や転機はありましたか?
1973年の第一次オイルショックの際に廃業を余儀なくされるほどの経営難に陥ったんです。そのとき、二代目の祖父を私の父で三代目の勲が「なにいうてんねん、がんばろう」と叱咤激励し、からくも事業を継続できたと聞いています。
このように当社は代々、先代と後継者が伴走しながら家業を守り継いできた歴史があります。創業者の時代は二代目の祖父が、祖父の時代は三代目の父が、父の時代は四代目の私が番頭のようなかたちで経営をサポートしてきました。今は、弟の専務が私を支えてくれていますね。もちろん従業員の努力なくして事業を続けることはできないですが、とりわけ歴史のある中小製造業は同族経営で生き延びてきている面があるので、一族の団結は不可欠だと思います。
私は高校時代から長期休暇の際に家業でアルバイトをしてきているので、ものごころついたときから祖父と父の働く背中を見て育ってきました。生まれながらの鉄工所の息子なんですよ。しかも中川家は代々三世代同居を続けてきました。会社の中では社長と部下の間柄でも、自宅ではみんなで食卓を囲むこともあるわけで。日常の会話のなかで、祖父や父から信頼関係の大切さ、感謝することの大切さを教えてもらいました。そんな教えが今に生きてますね。中小零細企業は今も昔も変わらず人と人とのふれ合いが大事ですから。
従業員も大切な家族の一員です。リーマンショックで経営難に陥った際も、当時社長の父が「なんぼしんどうても払ろたらなあかん」と自腹を切って寸志を全員に支給していました。また、高度成長の時代から当社を引っ張ってくれていた70歳を超えた職人さんも、いまだに現役でがんばってくれています。まだまだお元気なので第一線で働いてもらうつもりですし、若手の育成にも力を貸してもらいたいと思っています。
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中川鉄工株式会社
代表取締役
中川 裕之氏
事業内容/2017年に創業100年を迎える。プラント関連部品を中心に鉄道車輛、理化学機器部品、真空機器部品、原子力関連部品、航空機部品などの機械加工を得意とする。