【長編】父から娘へ託された経営者という名のバトン
自ら〝跡取り娘〟と称して、家業の経営に奮闘する笹井香予子氏。新聞記者から一転、20代で後継者としての道に飛び込んだ。現社長で父の康雄氏は、そんな娘の姿を温かく見守りながら、さりげなく経営をバックアップしている。記者を辞めて家業を継ごうと思った経緯、入社後の事業・組織改革にかける思い、娘に会社の未来を託す現社長の胸の内――世代交代、真っ只中のお2人に事業承継に対する思いを聞いた。
〉〉〉香予子さんが家業を継ごうと意識されたのはいつ頃ですか?
香予子氏 家業である家庭用収納用品メーカーに2010年に入社し、いまでは後継者として経営を任されるようになっていますが、実は父から「会社を継いでほしい」と言われたことは一度もないんです。私は3人姉妹の末っ子で、「自分の人生は自分の好きな道を歩め」という両親の教育方針のもとで育ちました。2人の姉は医師である母の影響もあって医師と歯科医になり、私は大手新聞社に入りました。家が商売をしている反動から、お金ではない価値の仕事をしたいと思い、「正義」を軸に選んだのが新聞記者だったんです。
理想を描いて記者になったものの、現場はハードワークで、思うようにいかない自分がいました。最終的に挫折を経験し、退職してマスコミ関係の仕事に転職しようか迷っていたときのことです。ちょうど父が体調を崩していたこともあり、両親から「辞めるなら会社を手伝ってほしい」と声をかけてもらったんです。
私は社会で活躍したいという思いが強いほうだと思います。でも新聞記者の夢はやぶれてしまった。そのタイミングで声がかかったことに対して全面的にプラスに受け取り、「自分の一生の活躍の場所はここにある」と思ったんです。そして、いきなり「会社を継ぎます!」と言って周囲を驚かせました(笑)。新聞社を退職したのが当時、27歳でした。ちょっと無謀だったかもしれません(笑)
康雄氏 この先会社をどうするにしても、身内が社内にいるのといないのとでは外からの見え方や事業の方向性が変わりますからね。体調を崩した時期に、娘が仕事で悩んでいたので声をかけました。継ぐと言ってくれるのはありがたいですよ。でも中小の経営は本当に大変なんです。リスクをよく理解した上で、経営者になる覚悟を決めてもらわないと。
とはいえ、基本的には本人に任せています。強い圧力はかけない方針なんです。子どもに会社を任せたものの、先代が口を出し過ぎた結果、結局子どもがつぶれてしまうようなケースはよく耳にしますから。
〉〉〉香予子さんは入社されてどのような仕事を?
香予子氏 ものづくりのいろはを学ぶため、開発の仕事から始めました。既存商品の図面を参考にCADの使い方を覚えるなど、基本的な知識を身につけたあと、今度は中国の協力工場の管理を担当することになります。父について中国に出張し、仕事をしながら管理のしかたを覚えていきました。
康雄氏 当社は1953年にアルミ製造業として創業し、1964年には国内で初めて住宅向けアルミサッシの量産を始めました。ところが第一次オイルショック後に事業が行き詰まり、再起をかけて進出したのが現在の家庭用収納用品です。
当時は、当社の主力商品の一つである収納用の突っ張り棒は日本にはありませんでした。当社の創業者である私の父が、海外で使われている突っ張り棒型のカーテンレールにヒントを得て、これを日本でアレンジすれば消費者に受け入れられると考えて開発したのが始まりです。
現在の事業に転換して以降、国内の工場は売却し、中国の協力工場で生産するようになりました。中国で高い品質の商品を生産するためには、技術指導もさることながら、お互いの信頼関係の構築が第一です。娘には最初に開発の経験をさせたうえで、中国の工場で生産管理の勉強をさせたいと考えたわけです。
〉〉〉新聞記者からの転身、まったく異なる仕事に戸惑いはなかったですか?
香予子氏 とくに日本の事務所の空気にちょっと戸惑いましたね。この会社は父の存在が大きくて、いわゆるトップダウンで動いているような組織でした。父と現場の社員をつなぐ存在の人は見当たらず、社員同士でもコミュニケーションをあまりとらないような雰囲気だったんです。社員のみなさんは優秀な方ばかりで、強固な組織ではありましたが、ボトムアップで意見が上がってこないという問題もありました。
私は経営者の娘という立場であり、異業種から転職してきた素人です。だから最初の1年は仕事に集中しました。そして、「ちょっと発言してもいいかな~」という頃になってから(笑)、改善提案をするようになりました。
当時始めたのは、2週に1度の開発会議です。目的は2つありました。1つは社内のコミュニケーションです。当時、全員が顔を合わせる機会はそれほどありませんでした。そこで東京の営業スタッフも含めた全体ミーティングを行い、業務報告や課題を共有することにしたんです。もう1つはボトムアップの組織づくりです。商品開発のアイデアを社員から吸い上げたいと思ったからです。いいアイデアを出してくれた社員を表彰する制度も設けました。
後継者候補としてやってきた人間が新しい取り組みを始めたことで、とくにベテラン社員からの風当たりがきつくなるかなと覚悟はしていたのですが、「しゃあない、話を聞いたろか」という感じで理解してもらえました。このときは、私が女性だというのもプラスに働いたのかもしれません。
開発会議を始めてから、「こういう商品をつくりたい」と社員が日常的に話し合うようになりましたね。開発会議には生活に密着したアイデアが集まり、何度も商品化しています。その一つが「キッズラック」です。小学1年生の子どもがいる男性社員の発案で、玄関に散乱しがちな子どものおもちゃをまとめて収納できるラックを開発したんです。
康雄氏 私はトップダウンで社員に指示を出し、組織を動かしてきました。このやり方のほうがスピード感はあるんですが、反面、社員が指示待ち人間になってしまう。彼女がボトムアップの組織に変えようとしていたので、私から社員に「会社の方針が変わった。これからは頭を切り替え、自分で考えて仕事をしてほしい。私は一年後に経営から身を引く。」と言いました。何十年もトップダウンに慣れている社員にとっては、簡単に切り替えられるわけではありませんけどね。その年(2012年)の9月から会議には一切でなくなりました。
〉〉〉香予子さんが入社されてから約4年、世代交代の準備としては早いという気もしますが?
康雄氏 私のやり方は時代に合わなくなったんです。これまで当社は、ホームセンターやGMSなどへ問屋を通じて販売するのが中心でした。その際の「顧客」とは「問屋」であり、あくまでBtoBを前提にものづくりをしてきました。
ですが、この5年でホームセンターなどへの直販に切り替えたんです。より消費者に近い立場での商売になりましたが、私自身は40年もBtoBでやってきましたから。いまから消費者の声を取り入れたものづくりに意識を切り替えることはできません。早く世代交代をして会社を若返らせる必要があったんです。彼女はインターネットを使い、うちの商品をPRしたり、消費者の声を聞いたり、いろいろやっていますよ。私にはよくわかりません(笑)。世代交代は企業の存続のためにも必要なことだったんです。
香予子氏 私も早いタイミングでの世代交代の準備でよかったと思っています。父が見守ってくれるなかで、若くして経営の勉強ができる時間は貴重です。いま財務もマネジメントも会社の管理は基本的には任せてもらっていて、父が私の管理をしているような感じです(笑)
〉〉〉フェイスブックに平安伸銅工業さんのファンページを開設したり、テレビ番組で会社が紹介されるなど、メディア展開に力を入れられていますね?
香予子氏 報道の世界にいたこともあってメディアが好きなんです。たとえばNHKの「サラメシ」という番組で取り上げていただき、社内に活気が出たと思います。この番組は事業内容とは直接関係はないのですが、自分たちが注目される喜びを感じました。社員には、メディアから取材されることで自分たちの仕事に誇りを持ってもらえたらと思っています。
フェイスブックでは商品の活用方法や開発秘話などを写真つきで紹介しています。目的は自社のブランディングに加えて、消費者との交流です。当社は戦後の創業当初はアルミサッシメーカーとして日本の住宅復興に貢献しました。1980年代以降はマンションなどの集合住宅の増加に着目し、手狭な日本の住空間を上手に活用できる突っ張り棒などの収納用品に事業の軸足を移しました。人びとのライフスタイルの変化に合わせて、その時代に求められている商品を数多く世に送り出してきたんです。
では自分の代で消費者に提供できる価値は何なのか――その答えを見つけるため、消費者と交流できる場をつくりたいと思いました。そのためにフェイスブックなどを活用し、消費者の声に耳を傾ける努力を続けています。これからの時代、当社に求められる価値はものづくりだけだとは思っていません。商品というモノに加えて、整理収納のアイデアなどサービスを提案する方法もあると思います。
自分の経営の軸を定めるプロセスのなか、たどり着いたのが「アイデアと技術で、暮らしを豊かにすること」という創業来の企業理念だったんです。
〉〉〉若くして会社の経営を任されるなか、ご苦労もあると思います。
香予子氏 いろいろ失敗があるなかでも、一番は人の悩みです。私が社員に対して求めすぎてしまい、「これ以上は期待に応えられない」と言われてしまったこともあります。その時はこたえました。
そのとき、お世話になっている経営者に相談すると、慰めの言葉ではなく、逆に鋭い指摘を返されました。その言葉で我に返り、原因は自分にあると気づかせてもらいました。そこでまた仕切り直し、新たな課題にチャレンジする。その連続ですね。私はまずチャレンジし、ぶつかりながら軌道修正していくタイプなんです。この会社でやりたいことがいっぱいあるんです(笑)。
経営者としての覚悟はしているつもりです。でも父や周りの経営者からは「まだまだ甘っちょろい」と叱咤激励されることが多々あります。失敗しつつ課題に取り組んでいくなかで、経営者として少しずつ逞しくなっていく自分を感じています。
康雄氏 彼女は焦り過ぎるんです。若いから「時」がわかっていない。ものごとには時間がかかると知ってほしいですね。もちろん私も人を育てるのは苦労してきていますよ。私の場合、半年や1年、放っとくんです。そういう育て方もあります。
〉〉〉現社長にとっては、経営から身を引く寂しさはありませんか?
康雄氏 確かに寂しい気持ちはある。でも早かれ遅かれ、どこかで身を引かないといけませんから。私の場合は体調を崩したのと、商売の形態が変わったのが契機となりました。工場でつくって売り込んでいた私にとって、消費者の声とか、マーケティングがどうのとか、わかりませんから。今後も企業として生き延びていくために必要な判断だったと思います。
幸い、会社の経営は安定させることができました。金融機関との関係も良好だし、中国の工場と信頼関係ができています。その意味で安心して引き渡せる時期であるといえます。彼女は夢が大きくていいですよ。私はどちらかというと現実目線で商売をしてきたほうですから、見ていてハラハラするときもありますけどね(笑)。夢を持ちつつ、現実も直視し、手堅く商売をしてほしいですね。
▼Bplatz press 2月号本紙に掲載された記事はコチラから
https://bplatz.sansokan.jp/archives/1725
平安伸銅工業株式会社
代表取締役 笹井 康雄氏/専務取締役 笹井 香予子氏
設立/1953年 従業員/23名 事業内容/1953年創業、収納用品の老舗メーカー。とくに突っ張り機構を取り入れた家庭用の収納用品に定評がある。