会社の窮地でも揺るがなかった“信頼”
大阪産業創造館プランナー 中尾 碧がお届けする
社長だって一人の人間、しんどい時もあります。そんな時にモチベーションの支えとなり、「一緒に頑張っていこな!」と声をかけたい“人”または“モノ”がきっとあるはずです。当コラムでは社長のそんな“相棒”にクローズアップ。普段はなかなか言葉にできない相棒に対するエピソードや想いをお伺いしました。
【 vol.11 】有限会社電研~会社の窮地でも揺るがなかった“信頼”
有限会社電研はアルミの表面処理加工を行う会社だ。アルミというと銀色を想像される方も多いと思うが、同社ではほぼ全色に着色することができる。
また、同社は現社長である桐島氏を筆頭に試行錯誤を重ね、六価クロムを使わない電解研磨処理技術を開発し、用途を拡大することができた。一方で現在の技術を生み出すまでには、同社もまた大きな試練を乗り越えねばならなかった。
桐島氏が父の興した同社に入社したのは38年前。四男のため当初は会社を継ぐことを考えておらず、卒業後は家業とは関係のない業種に就いたが、20歳の時に家族からの説得で入社した。
当時の現場は管理が徹底されていない部分があり、日々の成果物の量も安定していなかった。周りの職人は桐島氏よりも年上であったが、大手企業で培った管理経験と若さを活かして現場改善に努めた。
桐島氏が工場長の頃、後に相棒となる来田村氏が入社した。年が近く、来田村氏の誠実な人柄もあって程なく信頼しあえる関係となった。当時の同社は好景気に加え、桐島氏の奮闘もあって安定的に生産量を向上させていた。
ところがそこから少し経ち、電解研磨業界で排出される六価クロムの規制が強化された。製品の酸化を防止するために少量排出される六価クロム。当時の業界では六価クロムの代替案は無く、規制すなわち加工中断を意味した。
社内の雰囲気は悪く退職者が相次ぎ、最終的に社長就任間もない桐島氏と来田村氏の2人となった。2人で毎日代替案の開発をしながらあちこちを駆けずり回り、桐島氏の心拍数はストレスで100を超え続けた。
「やめても仕方ない」。そんな窮状の中でも来田村氏は桐島氏を信じ、期待し続けながら自身ができることを実直に進めることで支えてきた。その来田村氏の姿勢に桐島氏は励まされ、自社の将来について前向きなイメージを描くことができた。
「これからの会社にとって絶対変えずにいけるものを探そう」と考えを切り替え、規制から約1年半後に六価クロムを使わない電解研磨処理技術を開発した。
新しい技術により同業他社との差別化もでき、さまざまな業界への開拓も進んだ。
今では桐島氏、来田村氏のほかに桐島氏の子息である専務と技術職のスタッフの4人で日々対話を重ねながらアルミ表面加工の可能性を広げようとしている。そこには社長と従業員という垣根はなく、職人同士対等に話し合い、技術を磨こうという関係がある。
技術力の高さを活かして新しいことに挑み続ける今の同社を見て、桐島氏はよく来田村氏に「あの時(六価クロム規制時)は、今みたいになると思っていた?」と問いかける。こうして振り返ることができることも会社の将来が楽しみなことも、桐島氏と来田村氏がともに信頼し合って苦労を乗り越えたからこそ。
お互いを信頼し合うという2人の経験は、今や会社の風土として根付いている。
(取材・文/大阪産業創造館マネジメント支援チーム プランナー 中尾 碧)