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従業員を思い存続を決断 ものづくり回帰で提案力磨く

苦境乗り越え日本一のニットメーカーに

かつて日本の基幹産業の一つを担った繊維産業。人手作業に頼ることの多い労働集約型産業であることから近年は中国をはじめとする安価な輸入製品に押され、国内における繊維関連の事業所数、従業員数は大きく減少してしまった。戦後、ニット生産で日本一とうたわれた丸松もそんな歴史の荒波をくぐりぬけてきた会社の一つだ。

創業は1904(明治37)年。日清、日露戦争を契機に大阪のメリヤス(ニット)業界が活況を呈し始めた頃。初代社長の外海銕次郎は「資源の乏しいわが国は貿易によって国を豊かにするのが最善の道」と考え、紳士用肌着をインド向けに輸出し業容を広げる。1938年には中国・天津に工場を設け、一時は3千人もの従業員を雇用し、満州向けへの輸出を増やしていった。だが、第2次世界大戦の大阪空襲で海老江にあった本社は全焼。終戦とともに天津工場は接収された。

戦後、制限付き民間貿易が許可されたタイミングをとらえ、1947年にニットの生産、輸出を再開。当時としては珍しい編立、染色から縫製までの一貫工場を鴻池に整備し、「日本一のニットメーカー」としての地位を築く。その名声もつかの間、朝鮮動乱特需の反動で採算が一気に悪化し会社整理にまで追い込まれるが、取引先からの支援を受けて再建を果たし5年がかりで負債を返済。その後は対米輸出に活路を見出し、1990年代前半には160億円の売上げを記録した。

「最後の1つの工場になっても国内にモノづくりを残したい」

だが、円高の進行とバブル経済の崩壊が経営に打撃を与える。「私が工場で勤務していた頃、米国向けのポロシャツの数十億円分の委託生産がなくなって対応に奔走した」。以降、国内工場の統合・集約を図り、資産を切り売りしながら苦境を切り抜けてきた。この間、中国福建省に工場を設け、商社機能としての役割を強めていくことになる。1991年に160億円あった売上げは2009年には20億円弱にまで落ち込んだ。「社内には廃業もやむなしとの意見もあった」と外海氏は4年前のことを振り返る。

存続を決断させたのは「一緒に働いてくれている従業員を守る」という気持ちだったという。「浮沈を繰り返しながらも長い歴史を築いてこられたのは従業員のおかげ」と外海氏は感慨深げに語る。会社と従業員の結束の強さを物語るのは、1921年に発足した退職社員の親睦組織「松葉会」の存在だ。今なお年2回の総会が開かれているのも「よき時はともに喜び、苦難の時は一致団結して支えてきた気風があるからこそ」。

存続を決断すると同時に「メーカー回帰を内外に宣言した。取引先からオーダーのあった商品をそのまま中国で生産するだけではますます競争が厳しくなっていくのは目に見えていた」。ピーク時に七つあった工場は三重、高知にある二つの縫製工場だけになったが、「むしろ貴重な財産になる」と今後最大限活用していく。現在、生地メーカーや紡績メーカーとの情報交換を密にするとともに、工場を近くに持つ強みを生かし、いち早く次シーズンに流行しそうな素材をアパレルメーカーに提案している。その成果は新規顧客の増加となって成果に表れており、昨年度は長年続いた売上げの減少傾向にようやく歯止めがかかった。「丸松がなくなったら困ると言われるようなモノづくりのノウハウを次代に継承していくことこそがうちの価値」と外海氏。国内の繊維工場の減少には歯止めがかからないが、「最後の1つの工場になっても、国内にモノづくりを残したい」と言葉に力を込めた。

 

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▲創業者の外海銕次郎氏。

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▲1919年に建設された本社社屋。

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▲三重・鈴鹿にある自社工場。

2013年05月10日
丸松株式会社
代表取締役社長  
外海 大氏

シャツを中心としたニットメーカー。7割が紳士服、残り3割が婦人服・子供服。大手アパレルメーカー向けのOEMを中心に展開している。

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