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【ロングインタビュー】自ら選任した役員に訴え組織改革を断行。創業100余年の家業を継いだ跡取りの奮闘。

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家業に20代で入社した際、100人を超える従業員は全員が年上で、誰も聞く耳を持ってくれなかった。跡取り息子ならではの洗礼を受けた4代目の杉本氏は、2度の経営危機を迎えたタイミングで社長に就任。自ら選任した役員に「杉本家の会社から社員の会社にしたい。だから協力してほしい」と訴え、組織を一からつくり変えていった。創業100余年を誇る家業を継いだ同氏が、家業から脱皮して組織経営を実現するまでの軌跡を追う。

―まず御社の歴史と事業内容をお聞かせください。

明治40(1907)年に初代の杉本庄之助が日めくりカレンダーの製造販売を始め、暦(こよみ)一筋百余年の歴史を刻んできました。当社が日本で初めて日めくりカレンダーを製造したと伝え聞いています。現在は一般販売用カレンダー、企業カレンダー、名入れカレンダーを中心に商品点数約350点、年間製造部数約3000万部、シェアNO.1の規模で事業を展開しています。

私は四代目で、三代目である父が初代の名前から一字とって「庄吾」と名づけてくれました。小学生の頃までは社宅兼工場で生活していたので、カレンダーの紙の匂いとともに育ってきました。この業界は9~12月が繁忙期で、その時期は夜中まで電気がつきっぱなしで騒がしかったのを覚えています。家業と密着した生活を送っていたので、子ども心に「いずれは自分が継ぐんかなあ」と漠然と思っていました。

二代目の祖父には可愛がって育ててもらいましたね。私には姉が一人いるのですが、祖父にしてみたら直系の跡取りができたと嬉しかったんでしょう。私も「じいちゃんや親父がやってる会社デカいなあ。カッコええなあ」と誇らしく思ったものです。

でもいま思えば、同時に跡取りの立場をプレッシャーに感じていたと思います。社宅に住み込みで働いている社員さんに「ボン」て呼ばれてほんまいやでしたし、成長するにしたがって反発もするようになりました。そんなこともあって高校卒業後は「日本におってもしゃーない」と感じて海外に留学し、その後23歳で大手印刷会社に入りました。

―印刷会社はいずれ家業に入る前提で?

修行という意識もありましたが、純粋に印刷会社の仕事に興味があって選びました。生産管理の部署に配属となり、1年もすると「おもろいやんけ」と仕事に夢中になっていましたね。3年目にはネット関連の新規事業の立ち上げメンバーに引き抜いてもらい、俄然、張り合いが出てきました。いずれ家業に……という想いもあったのですが、その頃には印刷会社でずっと働こうという気持ちに傾いていました。

そこに待ったをかけたのが、家業の番頭さんなんです。「このままいったら会社潰れてまうぞ、はよ帰ってこい」――そうズバッと釘を刺されたんです。実は父親は私が6歳のころに病気を患い、闘病しながら会社を経営していました。ですが病身での経営は難しく、社内外から会社が危ないんちゃうかという声が聞かれ始めたんです。それを番頭が感じ取り、世代交代を促すために私に声をかけたというわけです。

番頭は私が生まれる前から住み込みで働いていた人で、子ども時代にはよく可愛がってもらいました。第二の父親みたいな存在の人です。その番頭さんのひと言なので大きかったですね。杉本カレンダーは祖父が大切にしていた会社ですし、父親にも好き勝手させてもらいましたから、やらなあかんなと覚悟を決めました。それで4年勤めた会社を退職し、27歳で家業に入社したのです。

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―家業に入られて最初に何を感じましたか?

とんでもない状況でした(笑)。経営面や組織面、人材面、さらには取引先や顧客などの外部に至るまで、すべてにおいて手つかず。会社として組織になってないし、財務も典型的などんぶり勘定。原価管理や在庫管理も曖昧で、そもそも管理という言葉を使うようなレベルでもありません。そのほか生産面や品質面のチェック体制もなかったですし、もちろん人材育成のしくみも皆無です。これはえらいところに来てもうたなと思いましたよ。

また社長の息子という立場上の苦労もありました。入社当時の従業員数は100人と少しの規模でしたが、全員が私より年上だったんです。組織をよくしようと何か提案したりしても「なんやこいつ、うるさいな」という目で見られて、まったく聞く耳を持ってくれない。でもいま思えば、それは敵対心ではなく、私が周りから認められていなかっただけやと思います。当時はそんなことはまだ理解できていませんから、味方が誰もいないなか、ポツンと一人だけ取り残されて右往左往していました。

―組織をご自身で動かすようになってきたのはいつ頃からですか?

正直何年もかかっていますよ。入社して2年目で取締役になっていますが、肩書なんて関係ありませんから。状況が変わり始めたのは入社3年後の2004年、2つの大きな事件が起きてからです。1つは取引先が倒産し、億を超える貸倒を食らったんです。業績を建て直すため、東大阪の工場を売却して40人の従業員をリストラする局面に立ち会いました。その頃、すでに先代は第一線には出て来なくなっていましたから、番頭が40人を前に宣告したのです。私は番頭の横ですべてを目の当たりにしました。

もう1つはその翌年、工場閉鎖に伴う生産の受け皿として、石川県に新設した工場の問題です。当社の主力商品の1つである日めくりカレンダーの生産を移管したのですが、商品づくりが上手くいかなかったんです。日めくりカレンダーをつくるためには熟練の技術が必要で、簡単に生産拠点を移行できるはずがなかった。大阪のスタッフが石川県に数ヶ月泊まり込んで対応にあたりましたが、結局この2つの事件で数億円の負債を抱え込んでしまいました。

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これらの経営責任をとって先代が引退し、代わりに私が代表取締役社長に就任。番頭が代表権のある副社長に就きました。当時私はまだ30歳だったので、経験豊かな番頭が社長を継ぐほうが経営的にはよかったかもしれません。ですが金融機関をはじめとした社外の目を意識すると、跡継ぎの私がバトンを引き継がないと対外的に認めてもらえないという事情があったんです。

正直、死ぬんちゃうかと思いましたよ。プライベートでは27歳で結婚し、子どもができたところだったので家族を食べさせる責任もある。でも仕事はぐちゃぐちゃで、どうしていいのかわからない。田舎にでも引っ込んで職を探そうかとまで覚悟しました。金融機関に頭を下げに行くと、「あんたどないして借金返すつもりや」とテーブルを叩いて怒鳴られたこともあります。それでも会社のためと割り切って、銀行まわりは続けました。

でも一方で社長になったことで、「こいつの言うこと聞いたれ」と周りが次第に変わっていったんです。それでもまだ自分で組織を動かすまでには至りませんでしたね。

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2015年01月09日
株式会社 杉本カレンダー
代表取締役社長  
杉本 庄吾氏

名入れタイプを始め各種カレンダーの企画製造を行う。扱い点数350点、年間製造部数3000万部、シェアNO1の規模を誇る。

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