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【長編】走る勿れ されど止まるは尚愚かなり ただ歩めよ

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葛藤を乗り越え、菓子道を究める

和菓子の「たねや」をはじめグループ全体で全国に42店を展開するたねやグループを率いるのが、4代目の山本昌仁社長だ。迷うことなく菓子作りの世界に進んだが、偉大な先代がいつも大きな壁となって立ちはだかった。さまざまな葛藤を乗り越えながら、常識にとらわれない発想で次々に新たなことを仕掛け続ける和菓子業界のイノベーターに話を聞いた。

 

〉〉〉家業を継ぐことを意識したのはいつ頃ですか?

小さい頃から、父親、母親が、頑とした強い意志で和菓子づくりに向かう姿をかっこいいと思っていましたし、あこがれでもありました。子どもたちが将来なりたい職業として、野球選手や宇宙飛行士を挙げるのも、あこがれがあるからですよね。今考えたら、両親もしんどい時はあったと思います。でも私たちの前では一切後ろ向きなことをいわなかった。もちろん経営者としてしんどい局面はあります。でもそれをしんどい、厳しいとばかり言っていたら、それを聞いた子どもたちは継ごうと思いませんよね?

最近の食品偽装の問題も、自分の子どもに言えないようなことばかりでしょう。経営者は絶対謝ったらあかん。謝らない仕事をしなければいけないのです。僕は、両親から自信と誇りを感じたからこそ、幼稚園の頃から、将来の夢はお菓子屋さん、と書いていました。

それからも迷うことはありませんでした。中学校の頃は、お菓子屋を継ぐのになんでみんなと同じ授業を受けなければいけないのか、という変なところがあって、だいぶ悪さをしました(笑)。そんなこともあって父親から「お前は、早よ修業に出た方が良い」といわれて、師匠に弟子入りすることになったんです。

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〉〉〉16歳から和菓子の師匠について10年間修業をされました。経営を引き継ぐ後継者にとって技術の習得は必要だと思われますか。

和菓子業界の知り合いを見ていても現場を経験していなかったからといって継げないかというと、そんなことはないと思います。ただ、そのような人でも、生まれもってお菓子屋の息子として育っているわけです。おのずと感性は身につくはずなので、そこをどう生かしていけるかでしょうね。

私の場合、自分が職人だという自負があるからこそいろいろなことが言えるし、お菓子屋である以上はお菓子以外のことをするべきではないという気持ちはことさら強い。菓子の道を究めようとすれば、原材料となる米や小豆などにもこだわる必要があります。近江米ひとつとっても農家によって土も違えば人も違います。私たちは、丹精込めた芸術品として素材を作っている生産者から仕入れたいと考えています。単に「国産米を使っています」ではなく、たねやでは「近江の○○さんがつくったお米でできた大福です」という売り方を2年前からしています。お客さんも安心できるし、生産者もつくりがいがあるでしょう。最近、農家の後継者問題が深刻ですが、農家さんも誇りを持てるものづくりができればそういった問題も少しずつ解消されると思うんです。

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〉〉〉まさに近江商人の三方よしの考え方ですね。

農家の方がつくったものが良いものであればそれに見合った金額を出して購入することが大事ではないでしょうか。そこで値切るのではなく、こんなに良いものをつくっているのであれば、その対価を支払うからその味をずっと続けてください、と言ったほうがやる気が出るでしょう。いつ契約を切られるかわからない不安のもとでは良いものは決してつくれないと思います。

私が小さい頃は、まだ近江八幡にお店が1軒しかなく、家に従業員が寝泊りしていました。会社に入ってくる人も、やんちゃをしてきた人や、お腹いっぱいごはんが食べられない人、体が不自由な人も多かった。そういう人たちと一つの家族をつくっていました。今、1700人いる従業員の顔を全員覚えているわけではありませんが、7人の部長とは徹底的にコミュニケーションをとっています。その部長たちが部下とまたコミュニケーションをとるという形で思いが伝わるようにしています。

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〉〉〉入社されてから、お父様(現会長)と意見がぶつかることはありましたか。

中学3年の時に、師匠と呼んでいるある方から「明日からお前は人前で父親とか親父とかおとうちゃんという呼び方をしてはいけない。父親のことは社長、母親のことはおかみと呼びなさい」と言われました。会社の中で自分だけがそのような呼び方をしていたら、従業員との隔たりができてしまうという計らいからでした。それ以降、社長、おかみと呼ぶようになりました。また、修業時代にも別の師匠から「ナンバー2の間は何があっても、リーダーについていくように」と教わりました。

実際、会社に入ってからは何を言っても父親に反対されました。だからといって、こちらはまだ経験も知識もかなわない。対立したところで前に進みませんから、結局従うしかないという感じでした。反論すると「10年早いわ。銀行から借りられるようになってからものを言いなさい」とよく言われたものです。

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〉〉〉経営者としての自覚が芽生えたのはいつごろでしたか。

20代の頃、会議に出ると父親が勢い良く話していました。当時、私は口下手だったので、自分に社長は務まらないなと思いました。また何を言われても言い返せませんでしたし。このままではいつまでも父親を追い越せないと思いました。

あるとき、父親が2000年に心臓病で倒れて入院したんです。その時、周囲から「本当にこの息子たちにあとを任せて大丈夫か」という感じで見られていました。ちょうど隣町の守山に大規模店を出そうとしていた時です。協力業者の方からは「開店をちょっと遅らせたらどうや」と言われ、銀行も慎重になり始めた。その時に父親の大きさをあらためて感じました。世の中の人は「あの父親の息子」ということで納得してくれていただけやったんやなと。

地元の青年会議所でも同じようなことがありました。ある先輩に、「おまえはサラブレッドかもしれん。でも山本昌仁という名前はみそくそや。たねやの息子として生まれただけで調子にのるなよ」と。その方に悪意はなかったんです。発破をかけてくれたんやと思います。不快でしたが、逆に「絶対やってみせる」と思いましたね。「山本昌仁」自身を売るために、先輩経営者やいろんな方々に指導してもらいました。

たくさんの方々と接していると、ああ経営者にもいろんなタイプがあるんや、と。自分は自分の色を出せばいいんやと気づきました。偉大な存在だった父を越えなければいけないとずっと肩に力が入っていたけど、そう思った瞬間、楽になりましたね。

それからは、私が社長になったときのことを見据えて労務規定を整備したり、人材育成に力を入れたりして。ですから、42歳で社長になった時には、なるべくしてなったという気持ちになれました。

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〉〉〉2011年に社長に就任されました。社長を引き継いでからのお父様や社員の方々との関係は

それまでは何を提案しても意見していた父が、私に社長を譲ってから、一切何も私に言わなくなりました。その時「ああ、認めてくれたんかな」と思いました。はじめは不安でしたが、自分が挑戦させてもらえているという気持ちになりました。それまでは対外的な活動もすべて父が表に立っていましたが、私が社長になってからは取材や講演など、たねやのことを発信できる場面があれば積極的に出ています。

従業員には、自分には自分の色があるのだから、自分の考え方を持つようにと言っています。歴史の事実は一点ですが、それをどのように見るかで変わってきます。私自身も一つのニュースについても良い、悪いと批評するだけでなく、できる限り自分の考えを言葉にしてみるようにしています。社員に対しても同じ。

たねやグループにはマニュアルはありません。一人一人が自分で考えて、答えを出してほしいと思っています。支配人が「これは37人の店長の総意です」と持ってきても、「それを受けてじゃあ君はどう思うのか」と聴いています。

1700人もの組織になれば不安がないといえばうそになります。でも私がやるべきことは社員に対して常に夢を語っていくこと。それを具現化するのが管理職。そのためにもわかりやすく伝えていかなくてはいけないと思っています。

彼らとの関係で大事にしているのは、「上司は部下に対して、何事にもあきず、あせらず、はらたてず」。「部下は上司に対して、逃げず、ひっこまず、言い訳せず」ですね。このバランスが取れていれば組織はうまくいくと思います。

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〉〉〉バームクーヘン専門店のクラブハリエの展開やオリーブオイルを使った和菓子の開発など、とても革新的なことをなさっています。その発想はどこから生まれてくるのでしょうか。

洋菓子は今から63年前に始めています。近江八幡では知られた和菓子屋でしたが、人口10万人に満たない町ですから、それだけでは商売が成り立ちません。どんどん洋菓子の競合店が近隣にできて、お菓子の市場がとられていきました。そこで、近江八幡の味でバームクーヘンとリーフパイを作って、売り始めたのです。今では洋菓子もしっかり近江八幡に浸透しました。

1998年ごろに阪神百貨店から出店の打診を受けました。どうせ出すなら、われわれの自信があるものでやらせてほしいとお願いし、バームクーヘンの専門店を出店しました。本場ドイツとは違う、近江八幡で育てられたバームクーヘンだからこそ自信がありました。

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オリーブオイルを販売し始めたのは2年前です。私はいろいろな国を訪ねて食材を探し歩きます。その時はローマからミラノの間を1日3、4軒ずつ回っていました。そのうちの一軒が、オーガニックオリーブオイルを手掛けるCMV社でした。経営者は城主の方で、町の自然環境に配慮され、一面ぶどうとオリーブを植えられました。広大な農場に入る時にはガソリン車から電気自動車に乗り換える徹底ぶりです。その時点で惚れこみました。地域やオリーブオイルにかける思いを聞きながら、すぐに契約を決めました。

その時点でオリーブオイルを使った商品は決まっていなかったわけですから、コンテナ2台分のオリーブオイルが届いて、経理担当者からこれをどうするんですか、と言われました(笑)。その城主が日本に来て食事をする際に何でもオリーブオイルをかけて食べる様子を見て、日本食にも合うものだとその時感じました。であれば、大福にかけてみたらどうかと思い、商品サイズや塩加減など工夫したところ、「これはいける」ということで商品化しました。

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世の中でこういうものが売れているから、というのは重要じゃないんです。日本、世界中から良い材料を探し出して、たねやであればそれをどう表現するかを提案することに意味がある。

自分が信じるところがこれや、と思ったら突き進みます。その時の判断基準は、儲かるか儲からないか、ではなく、世の中にとって良いか悪いか、です。ただ、途中で違うと思ったときはすぐに直すようにしています。そこで意地を張れば失敗しますから。

 

〉〉〉老舗では革新が過ぎると昔からの顧客が離れるという話も聞きます。

栗饅頭は明治5年から続いている伝統銘菓です。砂糖が貴重だった昔は、甘くて、ひとつ食べたらおなかいっぱいになることにお菓子の価値があったわけですが、今は健康に気をつかう人も多くなって、「甘い」も「おなかいっぱい」もだめなのです。小さくして、あっさりさせるために栗の量を増やしたりあんこの糖分を減らしたりしています。

しかし、お客さんに、「この栗饅頭、味が変わったな」と言われたら、プロではありません。お客さんに気づかれないように少しずつ少しずつ進化をさせてきたのです。今でも夏と冬は配合を変えています。それも気づかれないように、です。だから実は、昔からある商品ほど進化を続けているんです。オリーブオイルを使った商品は新しいから自由にできる。でも昔からある商品は制約の中で少しずつ変えていく。「いつも変わらん栗饅頭やね」と言われた時が、プロとしての最上の喜びです。

伝統とは続けることです。続けるためには時代に合わせて進化しなくてはいけないし、その進化の中には、周囲にわからないように変えていく革新が最も難しくて大事なことなんやと思っています。

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〉〉〉老舗には、時代時代で柔軟に解釈できる理念を持っているように感じます。それをひとつだけ挙げるとすればなんでしょうか。

「道」でしょうか。菓子屋は菓子屋の道を貫き通すことが大事です。まわりからよく、ホテルをやったらどうか、とか○○やったらどうかと言われますが、その道にはその道のプロがいるわけで、私たちが手出しをすると必ず失敗します。たねやグループは本業のお菓子屋に通じることしかやりません。

菓子屋の道はたやすいものではありません。50年、100年続けても1人前になれない世界です。菓子屋の原点である素材を自分たちで育てようと、たねや農藝を始めたのも、道を究めるための1つです。原材料の良さ、丹精の深さが商品に繁栄されると接客も変わってきます。近江米のこういうところが良いから、と伝えられるようになります。それはどの業界にでもいえることではないでしょうか。

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〉〉〉息子さんへの継承はできそうですか。

息子は今中学1年生です。私は小さい頃から「小さいうちに食べたもので味覚が決まるから」と、どんなことがあっても両親においしいものたべさせてもらいました。それを今、先代が私の息子にやってくれています。息子が小学生の時に書いた作文には「僕も大きくなったらお菓子屋を継ぎたい、おじいちゃんみたいに」とありました、「お父さんみたいに」じゃなくて(笑)。

私はたねやでの毎日、また道を究めるのが楽しいんです。そういう姿を息子もきっと見てくれていると思います。

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▼Bplatz press 2月号本紙に掲載された記事はコチラから
http://bplatz.sansokan.jp/archives/1728

2014年01月09日
たねやグループ
CEO  
山本 昌仁氏

和菓子舗「たねや」、洋菓子「クラブハリエ」などを展開。グループ全体の店舗数は42店、2012年度の売上げは201億円。

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