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を併せ持つ先代を越えなければ、という力みが抜けた途端、気が楽になりました」。たねやにはマニュアルはない。あるのは、京都の先生と先代がまとめた「末すえひろしょうとうえん廣正統苑」と呼ばれる門外不出の和綴じの書だけだ。そこには、「走る勿なかれされど止とどまるは尚愚かなりただ歩めよと訓さとされし我が先人の言を守りつつ今日も生くらし活を進めむ」といった近江商人の心得、商道が書かれている。山本氏が迷った時に常に帰る拠りどころだ。先代からたすきを受け取ったのは2011年のこと。それまでことごとく、山本氏に厳しくあたってきた先代は社長交代を機に一切の口出しをしなくなった。「ああ、ようやく認めてくれたんかなと」。菓子の道を究めようとすれば、原材料となる米や小豆などにもこだわる必要があるとの考えから、農家の生産者とじっくり話をし、素材づくりへのこだわりを聞いて回った。「近江米一つをとっても、土、育て方で出来ばえはそれぞれ違います。たねやは、丹精込めた芸術品として素材を作っている生産者から仕入れたいと考えています」。店頭で売られる菓子山本氏の目には、自分が幼かった頃、菓子づくりと真摯に向き合っていた両親の姿が焼きついている。30年前、たねやが県外の百貨店第1号となる和菓子店を出し、洋菓子部門「クラブハリエ」を新たに立ち上げた頃のことだ。「今考えれば、しんどいこともあったと思う。でも両親の口からは後ろ向きの言葉を聞いたことがない。菓子づくりって楽しそうやなって思っていました」。周りの友達が、宇宙飛行士や野球選手にあこがれたのと同じように、将来の夢を聞かれると自然と「お菓子屋さん」と答えていた。山本氏の強い気持ちを見抜いた先代から「おまえは早よ修業したほうがええ」と言われ、早々に和菓子職人のもとに預けられた。たねやへ入社しながらも修行すること10年。だが、その後も鼻をへし折られる。「何を言っても父にはことごとく反対されました。だからといってくつがえすだけの知識も腕もない」。悔しかった。時に強く反論すると「10年早い。銀行から借りられるようになってからものを言いなさい」と突き返された。クラブハリエの経営を任されていた30歳の時、大阪の百貨店から出店の打診を受ける。どうせなら一番自信がある商品で勝負したいと、バームクーヘンの専門店として出店。本場ドイツの味とは違う、近江八幡に育てられたバームクーヘンはたちまち顧客の支持を集め、連日長蛇の列ができるほどのヒット商品となった。少しずつ自信が芽生え始めていた矢先、先代が病に倒れる。自身が中心となって推し進めてきた大型店舗のオープンのタイミングだった。協力業者からは「開店を遅らせたらどうや」と言われ、銀行も急に慎重になった。「周囲からは、ほんまにこの息子にあとを任せて大丈夫かという目で見られました。世の中の人は『あの父親の息子だから』ということで私がやることに納得してくれてただけやったんやなと」。その後、積極的に社外に出て、異業種の経営者と交流するようになると、経営者には実にさまざまなタイプがいることを知った。「一流の職人であり、かつ強烈なリーダーシップ将来の夢は「お菓子屋さん」受け継いだのは先人の心得地域への思い伝統と革新02