産創館トピックス/講演録

≪講演録≫ネコを駅長にした立役者 ~社会に貢献し、人を幸せにする経営理念「忠恕」~

2015.02.02

経営理念、行動規範となる言葉との出合い

後ほどお話しする津田永忠という岡山の英傑の顕彰会で論語の勉強会に行ったときに「恕」が出て来たんです。子貢問うて曰く「一言にしてもって終身これを行うべきものありや」、子曰く「それ恕か、己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」。つまり子貢という孔子の弟子が、「いろいろ話をされても覚えられないので一言にしてください」と言ったんです。

孔子は、「思いやりという言葉だけ覚えてそれを尽くしていけば間違いなく一生を過ごすことができる」と答えました。そして「自分がされて嫌なことを人にやってはならない」と。これはCSの真髄です。

それからもう一つの「知行合一」。これは陽明学の命題のひとつです。「良いと思うことは必ず実行しなさい」ということです。皆さん方も今日は色々聞いてくださるけども、良いこと聞いたなと知識としてインプットされると自分が実行したと錯覚を起こすんです。

阪大の三隅二不二(みすみじゅうじ(じふじ))という集団力学の先生が、「人間は知っていることと行動を錯覚する動物である」と仰っています。陽明学は「行動の哲学」といわれ、知ってても行わなければ何の役にも立たないんですよという学問です。知っててやらないということは最も悪い、というのがこの「知行合一」です。

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先ほども名前が出ましたが、江戸時代の岡山に津田永忠という人がいました。たった家禄150石の田舎の侍でしたが、備前岡山藩の初代藩主・池田光政公と二代藩主・池田綱政公という2代のお殿様に仕えた人物です。あるとき永忠が光政公の不寝番をしていたところ殿様が起きて時間を尋ねました。永忠は「寝ててわかりません」と答えました。殿様の身を守るために不寝番をしているのに寝ていたと言うわけです。

しかし日本の三名君と謳われた光政公は一瞬にして津田永忠の能力を見抜きました。まだ児小姓(こごしょう)といえども武士がそんな失態をしたら首を切るか腹を切るかどちらかだということがわかっているにもかかわらず、命をかけても本当のことを言う。こういう家来にこんな仕事をさせるのはもったいないと当時の有名な陽明学者の熊沢蕃山に弟子入りさせました。

二代目の池田綱政公は勉強嫌いで遊び好きと評された殿様で、現在では賛否両論ありますが、幕府の留帳に「天下のうつけ者」と書いてあるほどです。光政公は息子の綱政に継がせたあと、永忠があまりにも出来すぎるので臣下として使いきれないのではないかと考えました。そこで自分も隠居するからと永忠に隠居を勧め、閑谷学校を作らせこれを守らせました。

そのころ藩内で今と同じように財政難、天候異変がありました。ついに備前岡山藩にも餓死者が出るとなったころ、永忠は閑谷の山奥から岡山城に登城して綱政公にこう言いました。「学問、学問と言ってきましたが、領民が飢えて死んでいくときになにが学問でしょうか。私は学校をやめ、死んでいく民を救いたいと思います」。

それを聞いた綱政公は大変驚きました。家臣は役立たずばかりかと思ったらこんな立派な家臣がいると。そしてたった150石の隠居した侍にすべてを任せました。綱政公は天下のうつけ者と言われていましたが経営者としては非常に人を見る目がありました。そして永忠に任せたところたちどころのうちに財政再建を果たすのです。

それができたら次は経済の活性化です。リストラばかりやったら会社は潰れます。売上げを上げていかなきゃならない。財政再建をしたら今度は新田開発。岡山には吉井川、旭川、高梁川の三大河川があります。永忠は、その吉井川と旭川の間に世界史上稀にみる大干拓を計画しました。

綱政公は喜びましたが、ここで幕府等から追われて京都にいた熊沢蕃山が、「備前岡山にそんな金は無い。川と川の間を埋め立てることは治水学上では大洪水が起こる。津田永忠は大ほら吹きだ」と諌言書を書いて送ってきたのです。しかし、自分を助けてくれた忠臣の永忠は干拓をしたいという。

そこでぱっと閃いた綱政公は、永忠に、「大名庭園が流行ってるから岡山にも作れ」と言ったんです。そこで新田の干拓は置いておいて後楽園を作りました。普通、大名庭園というのは大抵、完成まで10年から20年はかかります。ところが永忠は3年ほどで作ってしまったんです。それから約束通り、新田開発に着手しようとしたところで綱政公は熊沢蕃山の書状を見せ、蕃山を説き伏せてから着手しろと言いました。

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民の苦しみを救う

永忠は蕃山へ手紙を書きました。「備前岡山藩のお金は一銭も使わず、永忠個人が用立てする」と。永忠は財政再建のときに備前岡山藩の借金を、一文も欠けることなく返しました。だから永忠個人にならば何万両でも貸すという豪商が何人もいたのです。

そして、川と川の間を埋め立てることで大洪水が起こるということに対しては、高度な排水技術である唐樋(からひ)という技術を使い、大水尾(おおみお)と呼ばれる遊水池を作って活用すれば50年に一度の大洪水でも被害をおさえられると論じました。さらに続けてこう記したのです。「治政とは民の苦しみを救うことにございます」。こうして、全国でも稀有な大干拓が実現しましたが、私はこの一言に衝撃を受けました。

私は岡山青年会議所の理事長を務め、50代の初めに経済同友会の代表幹事を務め、赤字の会社を全部黒字にしてそれなりに貢献していたと思っていましたが、永忠さんの一言を読んだ瞬間に背中から水を浴びせられたような気になりました。今まで自分がしてきたことは、所詮、自分のためだけにやってきたことで、自分が他の人達の苦しみを救うなんてことがあっただろうか…と振り返って、地域のためになる取組みをしようと思い始めたのが地域公共交通の再生なんです。

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両備グループ

代表 兼 CEO

小嶋 光信氏

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