商品開発/新事業

≪講演録≫逆境経営~山奥の地酒「獺祭(だっさい)」を世界に届ける逆転発想法~

2014.12.17

ただ、山口県の工業技術センターの先生方から、「旭酒造の息子が社長になってから面白いことをやり始めたからいい杜氏を紹介してやろう」ということになり、但馬杜氏を紹介してもらった。優秀な杜氏で、私どもの旭酒造の技術的な基礎をつくってくれた。ただ、その杜氏も純米大吟醸は造ったことがないという。

あるとき静岡県のいい地酒の蔵元を技術指導していた方のレポートを読む機会があった。そこには大吟醸を造るにあたってのさまざまな条件や技術が細かく数字にして書かれていた。杜氏にこの通りにやろうと言ってやったところちゃんと純米大吟醸らしい味になった。

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まだ65点程度の出来の酒だったが、私にしてみればノウハウとテクノロジーで酒は出来上がる、と鼻高々であちこちで吹聴するほどだった。その結果、酒造りに経営者が口を出すようになった。普通の日本酒のメーカーでは経営者は酒造りに口を出さず杜氏に任せる。引き継いだ最初の年の年商が9700万円で、それを10数年で2億円ほどまで伸ばした。もしかしたらうちの息子に後を継がせることができるのではと思えるようになっていた。そうなると5年、10年先のことまで考え始める。

将来を考えたときに最大のネックとなったのが杜氏の確保だ。杜氏の高齢化が進んでいたからだ。これを解決するには自社で養成するしかない。杜氏は農家の人が冬場の農閑期に出稼ぎで酒蔵にやってくる。杜氏にしてみれば農閑期の収入源になり、蔵にしてみれば酒造りのない季節は人件費が発生しない。

ところが社員として抱えようとすると年中人件費が発生する。そこで夏場に売れる地ビールを造ろうと考えた。併せて錦帯橋の河畔に地ビールレストランも開いた。1999年3月のことだ。ところが3ヵ月であっけなく撤退した。2億4000万円突っ込んで売り上げは3000万円。ようやく売り上げが2億円まで来たところで、2億円弱の赤字を背負った。周囲の人は「旭酒造は9割方つぶれる」と思っていた。私も6割ぐらいはもうだめだと思っていた。

結果は長期、短期の借入金でなんとかしのぐことができた。でも杜氏は嫌気がさしたのか他の蔵に移ってしまった。これが、うちが伸びた4つ目の理由「杜氏にFA宣言されたから」だ。新しい杜氏を呼んできてまた苦労するのだったら、自分でやったほうがいいと考え、社員の4人と私とで酒を造り始めた。

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量よりもおいしさ、質で勝負

そのころ、社会でも大きな変化があった。宅急便が出現し、コピー機が低価格化した。これによって全国に1ケース、2ケース送れるような物流の機能を持つことができ、自前で情報を発信できるようになった。酒屋さんの世界では、このころからディスカウントストアやコンビニが台頭し始めていた。それまでは酒屋さん、問屋さんの側が、どの銘柄をお客さんに売るかの決定権を握っていた。

それがそのころからお客さんが選ぶ時代になっていた。私はそのころから少しずつ、量の商売から質の商売、おいしさに着目した商売に変えつつあった。なぜなら、社会に対する日本酒の使命、要求される機能が変わっていったことに気がついたからだ。

どういうことかというと、私が子どものころの昭和30年ごろは一升瓶のお酒の値段は500円で、大工さんの一日の日当は500円。つまり大工さんの日当でやっと1升のお酒が買えた時代だった。それが、私が社長になったころには日当で20~30本のお酒が買えるようになっていた。おこづかい程度の金額でたくさんのお酒が飲めるようになっていた時代に、私たちは量よりもおいしさで満足してもらえるお酒に移ろうとしていたのだ。

私どもは山田錦という最高の酒米と使い、純米大吟醸というコストのかかる造り方しかしない。それはなぜかと言うとおいしさをメインに勝負しようと思ったからだ。

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旭酒造株式会社

代表取締役社長

桜井 博志氏

https://www.asahishuzo.ne.jp/