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【長編】「必死こいてやりきる」 町工場から情報通信事業へ業態転換

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20年前までは自動車部品の修理をおこなう町工場だった。今年3月にはその工場を売却し、完全にモバイル事業とクラウドソリューション事業という情報通信サービス分野へと業態転換を果たした。この20年、どのような思いでまったく畑違いの新たな事業に挑み、育ててきたのか。渋谷氏に聞いた。

 

〉〉〉お父様は町工場を経営されていたそうですね。

車のボンネットを開けたところに搭載されている電機部品、たとえばセルモーターとかオルタネーターなどの修理を行っていました。私は兄がいましたから、継ぐ気持ちもなかったのですが、自動車部品メーカーの代理店に就職して、その後父親に引き戻され、町工場で働いていました。ところが、この町工場の主力事業において、仕入先メーカーに、外資が入って大幅なリストラが行われ、うちの会社もアッという間に切り捨てられました。提供していた価値といえば、商品知識と在庫を持っていることとデリバリーができることくらいだったわけで、メーカーの意向次第でそこにぶら下がっている会社なんて簡単に弾き飛ばされてしまう。虫けら同然やなと思いました。20世紀型の日本的な商流から離れて、しんどくても自社でコントロールできる商売をせなあかんなと、そこで痛感したわけです。

その後、父が急死しまして、家業を継ぐために戻ってきたばかりの兄とともに町工場の経営を引き継ぐことになりました。そこでまず始めたのが、携帯電話ショップの展開でした。

 

〉〉〉なぜ、いきなり携帯電話ショップだったのでしょうか?

自動車部品の修理業は先が見えませんでした。何もやらないでいることのほうがリスクも大きいと考えての決断です。現在国内で1億3,000万契約を超えている携帯電話も当時はまだ100万契約に満たない未開の事業でした。私自身、現場の店長から始めて、厳しかったですが何とか店舗を増やしていくことができました。

その後、Windows95が発売され、徐々に活用され始めたインターネットに大きな衝撃を受けました。これは世界やビジネスが変わるなと。たまたま親しくしていた携帯電話会社の方が、データ通信に強いPHSの営業を担当されていたこともあり、一ユーザーとしてIPによるデータ通信を利用するためのインターネット接続サービス(ISP)の必要性を痛感し、96年4月にISP事業の会社を創業しました。先ほどの話で、日本の商流を変えるにはネットの役割が重要な役割を果たすと考えていたこと、そして、携帯電話販売店も、もし携帯電話会社に何かあれば影響を受けるわけですから、次の一手を打たなければいけないと思っていたこともISP事業を始めるきっかけになりました。

 

〉〉〉しかし、町工場の事業とはまったく関係のない情報通信の世界へよく入られましたね。

生来の負けず嫌いですね。根拠のない自信だけはありました。ですが、そんなもんは粉々に吹き飛ばされるくらいに厳しかったです。インターネットの世界はまだ勃興期で、当初はまだ競合がほとんどなかったこともあって、まずは地域で会員が3000人ほどまであっという間に増えていきました。

ですが、21世紀も間近になると、ネットベンチャーブームとともに、一気に競合も増え、大手がISP事業に参入しだすと、どんどん採算が悪化。最後は事業を売却することになりました。複数の証券会社やベンチャーキャピタルが当社みたいな会社にすら顔を出してくれ、なんとなく浮かれたところがあったんだと思います。
結局は実力通り…周囲におだてられたところで、力がなければ社員も守れないということです。

売却後は、13人ほどいた社員が、インターネット技術者6~7名を残し、愛想を尽かして辞めていきました。中には、私にうそつきと罵声を浴びせた人もいました。

経営者は夢を語るのが仕事、未来に責任を持つことが仕事ですが、それが実現できなかったらうそつきになる。そのことを痛感しました。2002年頃の話です。

それからは、泥をなめながらでも仕事をすれば何とかなる、と思い、法人向けのホスティング、ソフトの受託開発の仕事をひたすらやっていました。転機になったのは、2004年に堺市と協働で地域インターネットデータセンターを構築したことです。その後、大阪府からもデータセンターの事業を譲り受けることになるのですが、併せて自治体向けの住民情報サービスを提供するようになりました。

そうしているうちに町工場の仕事も、自動車部品の修理業だけでなくカーナビやETCなどの機器の販売業も始めるようになって少し息継ぎができるようになっていきました。このカーナビは使えると思いました。今では、スマートフォンアプリとしてのカーナビと、動態管理技術を連動し、安全運転につながるデータを収集して分析する法人向けサービスの開発も行っています。

データセンターのようなファシリティの上に仮想化技術があり、これをもとにプラットフォームをつくって、さらにその上のレイヤーで動態管理や自治体向け住民情報サービスなどのアプリケーションが乗っかってきたわけです。

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〉〉〉すべてが結びついていった。

町工場の仕事を見ていても、感覚的にスマートバリューが持っているITの分野に、カーナビといった専用ハードウェアをうまく絡ませたいとは思っていました。町工場の古くからいる社員には、会社からは切り離すかもしれないけれども、雇用は守ると約束しました。そして今年3月、工場の事業を売却することになりました。カーナビの卸を担当する部門の社員はスマートバリューで引き受けました。今一番うれしいことは売却先に行った社員が満足してくれていることと、その町工場の事業が売却後、順調なことです。

うそつきにならずに済みました。

そういう責任も果たしながら、町工場の事業領域も活用し、新たにスマートデバイスとインターネットを中核とした情報通信サービス事業が必然的に構成されました。

 

〉〉〉しかし、携帯電話販売店も順調だったわけですから、今思えばそこから無理にリスクをとる必要はなかったわけですよね。

私がインターネット事業で苦しんでいた頃、携帯電話は急速に普及し、兄が携帯電話事業を見てくれていて、一定の成果を残してくれていました。ただ、それに安閑と安心してしまうとイノベーションは生まれないと思っていました。これでええやんと思ってしまったら、次の一手を出さなくなるでしょう。自分がそうなるのが嫌なんです。ISP事業を売却した頃はしんどかったですが、自分がアホやからこうなるんやなと思ってました。そうすると、毎日必死こくしかないでしょう。ウルトラCはない、1+1は2でしかない。365日24時間の時間のうち、どれだけ時間を使って働くかしかないんです。

自分が弱いと、ついつい社員にこびたり、どうしてあげたら機嫌がよくなるかばかりを考え自分の軸がなくなってしまいますよね。そうすると何らかの形で自信を持つしかありません。元々なんの力も地頭もない自分にできることは、やりきったという自己の内面への納得感でしかない。その納得感が自信につながります。弱さを克服して自信につなげるために、努力した時間と流した汗と履き古した靴は決してうそをつかないと思っています。

最近、一番うれしかったのは、10年近く働いている社員から「社長は私が入社してから一回もうそをついてない。言ったこと全部やりきってますよね」と言われたことですかね。

 

〉〉〉今後の事業展開について。

事業は、携帯電話販売のモバイルと、クラウド基盤の上でサービスを開発するクラウドソリューションのセグメントに分けています。モバイル事業は市況として難しいフェーズに差し掛かっていますが、まだまだ付加価値を上げる要素はあります。そして、あらゆる社会課題の解決に対し可能性を秘めるクラウドソリューション事業については、まっすぐに伸ばしていこうと思っています。

今、社員は265人いますが、平均年齢32歳ほどです。この社員たちが定年を迎えるまで30年ほどあります。しかも今後の採用を考えると、10年後に人件費だけで今より3億5,000万円増加すると試算しています。日本経済全体では、特に内需の成長が見込めない中で、この人件費を吸収していくことを考えると、成長し続けないと社員の幸せはありません。

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〉〉〉休んでいる暇はありませんね。

よく、「50歳になったらリタイヤすんねん」なんて話をしている経営者がいるでしょ。僕はそんなん嫌なんです。生き様が違う。安閑としていられる状況ではないし、たくわえもない。やりきるしかないんです。ただ老害にならないように権限委譲は徐々に進めていきますけど、そういうことも含めて未来への責任を全うしようと思っています。

厳しいかもしれないけれど、もちろん社員にもやれという。それが僕のアイデンティティなんです。

 

2013年10月10日
株式会社スマートバリュー
代表取締役社長  
渋谷 順氏
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